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アフサナ・ベガム(インド)

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自分の将来に何が待ち受けているのか、胸を高鳴らせながらビハール行きの電車に乗りました。その時、私は14歳。自分の倍以上の年の夫のもとに嫁ぐために電車に乗ったのです。夫が住んでいたのはビハール州の小さな町です。私が電車で向かおうとしていたのは、この小さな町です。

両親、兄弟、友人、そして生まれ育った故郷を後に旅立つのは簡単なことではありませんでした。まるで温かさ、優しさ、そして愛情にあふれる地面にしがみつこうとする植物を引っこ抜くような感じでしょうか。でも、そんな不安を感じる必要はまったくありませんでした。少なくとも最初は。

義母も夫も私のことをとても大切にしてくれました。結婚してから2年がたったある日、素晴らしい贈り物が私たちのもとに届きました。家族全員待望の男の子の誕生です。家中が喜びに沸きました。

この幸せな日々が長続きしないとは、思いもよりませんでした。あまりにもつらく、悲しいできごとが、人生を悪夢に変えてしまうなんてどうして想像できたでしょう。

結婚して6年目、突然、額とほおと手にパッチが出てきたのです。これが何を意味するか分からず、突然に出てきたのだから、すぐになくなるだろうと思いこんでそのままにしていました。しかし他の人はそう思わなかったのです。特に家族や近くに住む人たちが。

徐々にパッチは体中に広がっていきました。きれいな泉に油が垂れると、全体にぱっと広がりますね。あのようにです。やがて誰も私に近寄らないようになり、まるで社会の最下層民のように扱われるようになりました。夫も含め、家族は、私のことを世捨て人や、不可触民のように扱いました。読み書きのできない私は、一体自分に何が起こっているのか、なんの病気にかかっているのか分かりませんでした。分かっていたのは、私の人生が目の前でどんどんと崩れ去っていっているということだけでした。

病気に加えて、この時期に私は病気がちな娘を産んだのです。義母は生まれたばかりの娘を殺そうとしました。それまで私は一人で黙って身にふりかかった悲劇を耐えてきました。しかし母性が私の中に残っていた人間を呼び覚ましたのです。娘を助けなければいけないという一心でした。何があってもどんなことになっても娘を犠牲にしないと固く心に誓いました。

しかし私たちを待ち受けていたのは、魔女狩りの裁判のようなものでした。生まれたばかりの娘と私は、食べ物も与えられずに何日も監禁されました。泣きながら娘を助けてくれるように叫びましたが、誰も聞いてはくれませんでした。日夜を問わず、慈悲深いアラーに子どもの命を助けてくださるように祈り続けました。

忘れ去られなければならない恥のように、外の世界から存在を隠され、小さな部屋に閉じ込められていました。コルカタに住む両親に連絡を取ることさえ許されませんでした。そんな時、神が私の声にこたえてくれたかのように、兄が私に会いにやってきたのです。私の置かれている状況を見た兄は激怒し、私を連れて帰ることを決めましたが、考えていたほど簡単にはいきませんでした。私を実家に連れ戻すことを説得することは、とても難しいことでした。最終的に夫は了解しましたが、条件を出してきました。息子は残していくように、という。息子には私の病気はかかってないだろうというのです。何を言っても許してくれず、息子を置いていくことにしたのです。まだ夜が明ける前に、静かに家を抜け出しました。私がいなくなるのを見れば、息子はきっと泣くでしょう。息子が泣いている姿を目にすることは耐えられません。

コルカタのハウラー駅で電車を降りた時、私が持っていたのは、ハンセン病の症状の出た顔と病気がちな娘だけ。両親と、姉と兄、兄の妻と彼らの2歳の息子の家に身を寄せることにしました。歓迎されていないことに気がつくのに、時間はかかりませんでした。でも娘の顔を見るたびに思ったのです。どんなにつらくても、面と向かった嫌みも嫌悪感も差別も黙って耐えなければならないんだと。

傷は悪くなっていく一方でしたが、医者に行くのは止めました。これ以上、仕立屋をしている父の金銭的な重荷になりたくなかったのです。

父だけは私のことを心配してくれ、私が家にいることを喜んでくれました。母でさえ、私にはまったく無関心だったのに。伯母に至っては、私が両親と一緒に暮らしているのは過ちだと母に言い聞かせていました。

これでふっきれたのです。屈辱の涙が目にしみました。なんとか暮らしていけるだけのものを用意すると、両親の家をすぐに後にしました。それ以外に何ができたというのでしょう。しかし、どこで暮らせばいいのかという大きな問題がまだ残っていました。私だけではなく、まだ小さい娘まで連れて。希望も何もなく、運命に流されていくだけのように思えました。

一番暗いのは夜明け前、という言い回しがあります。あの頃が夜明け前だったのでしょう。ある日、私は熱を出している甥を連れて、近くにあるティリャラ診療所に行きました。医師に診てもらおうと待っている時、誰かが私の背中を軽くたたいたのです。振り返ると、そこにはディルルバ・ベガムの笑顔がありました。ここで働いて、みんなからママタ・ディディと呼ばれるようになった人です。ママタは、愛と思いやりという意味です。私が彼女を見ると、他の患者がいなくなるまで待つようにと言いました。誰かが優しく触れてくれること、穏やかな声、温かい思いやりは、どれも私の人生から長いこと失われていたものばかりです。診療所からみんなが帰ってしまうと、彼女は自分の部屋に私を呼びいれ、顔や手にある傷を診てくれました。ママタ・ディディが私の腕を手に取ってくれた時、暗闇だった私の人生に希望の光が差し込むのが見ました。

ママタ・ディディは、この傷がハンセン病によるものだと教えてくれました。治療の開始が遅いと、目や口に障がいが出てくることも。

それからママタ・ディディがGRECALTESというNGOを代表してこの診療所で働いていることを知りました。この団体はハンセン病や結核の人のための団体です。診断して、治療を受けさせ、治った後には普通の生活がまた送れるように支援してくれるのです。

いつ、どうやって薬を飲むのか丁寧に説明してくれた後、ママタ・ディディは私に薬をくれました。最初は診療所に行くのはとても怖かったんですよ。近所の人たちが私の病気に気が付いてしまうんじゃないかって。誰かに見つかるんじゃないか、またひどい目に遭うんじゃないか、差別されるんじゃないかという恐怖はなかなか消えず、診療所に行くことを止めたこともありました。でもママタ・ディディは私が診療所に行かないと、薬を持って家まで来てくれました。

最初に薬を飲み始めた時は、うまく反応せず、顔のパッチはひどくなってしまいました。腫れ上がって、恐ろしい見た目になってしまいました。家族でさえ、私の顔を見ると顔をしかめました。恐ろしくて恐ろしくてママタ・ディディのところに走っていきました。するとママタ・ディディはこういいました。心配することはないのよ、薬が効き始めてるってことなんだから。痛みも消えるわ、と。ママタ・ディディの言うとおり、薬はよく効き、6カ月後には傷もほとんどなくなりました。

今は、そう、生まれ変わったような気持ちです。もう日中、外に出掛ける時に顔や手を隠していこうなんて考えることもありません。誰かが同情に見せかけて、「その傷はなんだい、アフサナ?」と指を向けてくることがあるんじゃないかなんて、くよくよしたりせず、自信を持って、胸を張って生きています。

ママタ・ディディは新しい人生をスタートさせてくれただけではなく、私の心の支えになってくれました。病気のことだけではなく、金銭面での問題や、家族との問題も彼女に話します。人生で最もつらい時期、世界の誰もが私に背を向けて、まるで頼る人がいなかった時に、そこにいて励ましてくれた人に対して、何も隠すことはないからです。

ママタ・ディディはGERCALTESが行っている回復者を対象とした縫製の職業訓練を紹介してくれました。毎週ここに通っていますが、このコースが終わるころには、仕立屋や店で仕事が見つけられると思います。そうすれば9カ月になった娘と私の2人が食べていくことができるようになるでしょう。

そうそう、もう言ったかしら?娘にラウナックという名前をつけたって?光という意味なんですよ。娘の輝く笑顔を見るたびに、アラーに祈るんです。娘は私が耐えたような厳しい試練を経験しなくてもいいように育ててあげられるように力をください、と。娘は私のすべてです。

出典:Dignity Regained (ICONS Media Publication)
引用に際して許可を得ています。