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戦後80年に伝える戦時下のハンセン病問題。戦争と隔離、2つの苦難を生き抜いた患者・回復者の真実

国立ハンセン病資料館の開館以来、初めて「戦争とハンセン病」をテーマに開催された展覧会の様子。会場は多くの人で賑わっていた

取材:ささへるジャーナル編集部

2025年8月15日、第二次世界大戦が終戦してから80年を迎えます。日本における戦争とハンセン病の歴史をひも解くと、戦争がハンセン病患者の隔離の被害をより深刻化させたことが分かります。

東京・東村山市にある国立ハンセン病資料館では、初めて「戦争」に焦点を当てた展覧会「戦後80年―戦争とハンセン病」(外部リンク)を2025年8月31日まで開催しています。「戦時下の療養所」「日本植民地下の療養所」「沖縄戦」などに関連する資料を展示するとともに、従軍中にハンセン病を発症し、ハンセン病療養所への入所を余儀なくされた立花誠一郎(たちばな・せいいちろう)さんという1人の回復者の人生をたどります。

立花さんは1921年、愛知県生まれ。1942年に陸軍航空隊に入隊し満州国での従軍の後、1944年のニューギニア戦でオーストラリア軍の捕虜となります。捕虜生活中にハンセン病と診断され、病棟から離れたテントに隔離。孤独に耐えながら終戦後に帰国を果たしますが、ハンセン病患者が身内にいることで家族に迷惑をかけたくないと名前を変え、実家から遠く離れた岡山県にある国立ハンセン病療養所・邑久光明園に入所。2017年に生涯を終えるまで、この地で過ごしました。

戦争、隔離という2つの苦難を生き抜いた立花誠一郎さん
立花さんが使っていた布製バッグ(左)、軍帽(真ん中)、スケッチブック(右)

今回は、国立ハンセン病資料館の学芸員、吉國元(よしくに・もと)さんと、同展覧会を共催する東京・九段下にある戦傷病者と家族の苦労を伝える施設しょうけい館(外部リンク)の学芸員・半戸文(はんど・あや)さんにお話を伺い、戦時下におけるハンセン病患者・回復者の偏見・差別の実情に迫ります。

薄れゆく戦争とハンセン病問題の記憶。未来への継承が大きな課題

――今回の「戦後80年―戦争とハンセン病」を開催するに至った経緯について教えてください。

吉國さん(以下、敬称略):国立ハンセン病資料館ではハンセン病にまつわるさまざまな資料を、しょうけい館では戦傷病者やそのご家族の労苦を伝える資料を集め、展示してきました。しかし、ハンセン病回復者および、戦争を経験した世代は高齢化し、さらに年々減少していて、両館ともに、当事者の記憶をどのように未来に継承するかが大きな課題となっています。この課題に対して、「どこから始められるか」を話し合う機会になればと、今回の企画が立ち上げられました。

国立ハンセン病資料館の学芸員として活動する吉國さん

吉國:2つの施設が連携した背景は、2022年度に国立ハンセン病資料館で開催した企画展「生活のデザイン」に遡ります。この企画展では、ハンセン病療養所で使われていた義肢や装具を展示したのですが、義足の展示方法について悩んでいたところ、2021年にしょうけい館で開催されていた企画展「義足は語る」の展示方法から多くのヒントを得たことがきっかけとなりました。

何よりも印象的だったのは、義足の展示方法です。寝かせがちな義足を立たせて展示することで、義足が「その人の足であったこと」がよりよく伝わる。ごくシンプルではありますが、この工夫をヒントに、今回の展示でも義足を立てて展示しています。

しょうけい館の展示方法を参考に本展覧会で展示された、軍から支給された義足

半戸さん(以下、敬称略):しょうけい館でもハンセン病の戦傷病者の展示をしたいと考えていたのですが、その社会背景の説明の難しさを感じていました。今回の展示を通じて戦傷病者であり、ハンセン病患者でもあった立花誠一郎さんに焦点を当て、多くの資料が展示できたことをありがたく思っています。

しょうけい館の学芸員として活動する半戸さん

――戦争が始まる前からハンセン病患者の方々は差別され、社会から切り離された療養所での生活を強いられていましたが、戦時下においてはどのような立場に置かれていたのでしょう。

吉國:隔離の対象であったハンセン病患者は、「戦力にならない身体」として徴兵されることはなく、療養所で過ごしていました。といっても、国による物資統制が行われ、医療の提供も不十分だったため、満足な治療を受けることはできません。

包帯や薬品は慢性的に不足しており、入所者が自らの着物を裂いて包帯を作り、洗ってくり返し使用していました。食料事情も深刻で、1944年から45年にかけては多くの方が栄養失調が原因で命を落としました。

戦時下にハンセン病療養所で反物を裂いて作られた包帯
戦後直後の困窮の中、飛行機の羽やエンジン・プロペラなどに使われたジュラルミンを溶かして作られた、すり鉢(左)、蒸し器(右)。※蒸し器は一部アルミ、はりがね、布なども使用

吉國:また、入所者にも国防献金(※1)や神社礼拝、宮城遥拝(きゅうじょうようはい※2)、教育勅語の奉読(※3)、など「国民」としての義務が課せられました。さらには入所者による戦争協力詩なども残されました。

戦時中は「戦争に行けなかった自分たちもお国の役に立ちたい」という想いが利用されていた入所者らは、敗戦を迎え、自分たちが政府の策に取り込まれていたと気づき、深く反省をしました。それはとても過酷な現実だったと思います。

※1.「国防献金」とは、戦時中、兵器の生産や軍人援護のために国民が軍に拠出した現金

※2.「宮城遥拝」とは、皇居の方向に向かって敬礼する行為

※3.「教育勅語の奉読」とは、明治天皇が発布した「教育ニ関スル勅語」を暗唱する行為

半戸:戦地でハンセン病を発症した「軍人癩(ぐんじんらい)」と呼ばれる方々は、徴兵検査に合格をして戦場に行ったことで、「自分は国に貢献した」という自負があったと思います。しかし当時、ハンセン病は不治の病として恐れられ、隔離後はさらに過酷な環境に置かれて人間扱いされないような状況でしたから、非常に苦しい思いをされたのではないでしょうか。

戦争と隔離、2つの苦難を生き抜いた人々の歴史をたどる

―― 展覧会開催に当たって特に力を入れた点、工夫した点はどこでしょう?

吉國:今回の展示は、戦争とハンセン病に関する年表から始まり、日本の植民地下における療養所、沖縄戦、そして軍人癩と呼ばれた人々、最後に個人――立花誠一郎さんへと、徐々に焦点を絞りながら戦争と向き合う構成になっています。

ロビーでは立花さんの映像を流し、氏の立ち居振る舞いや声に触れることができます。しょうけい館とハンセン病資料館の2館が所蔵する資料を組み合わせて、立花誠一郎さんという一人の人物像を立体的に知っていただけるような展示にしたいと思いました。

本展覧会では、しょうけい館が制作した、立花さんを含む3人のハンセン病回復者の証言映像も見ることができる

吉國:また、展示では立花さんが詠んだ短歌もいくつかご紹介しています。

「撃たれたるわれを背負いし戦友の背中の温みは今も忘れず」

-『楓』通巻第570号、 2014年5・6月号

例えばこの一首には、立花さんの戦場での記憶や叫び、痛み、戦争そのものの恐ろしさ、厳しさが集約されているように感じます。

展示された立花さんが詠んだ短歌の数々

半戸:しょうけい館では、戦傷病者一人一人がどのような経験をされてきたかにフォーカスを当て、戦争中に負ったけがや病気を抱え、戦後、どのような人生を送ったかを伝えることを大切にしています。

今回、ハンセン病資料館と共催することで、常設展などを通してハンセン病患者が置かれていた社会環境を学ぶと同時に、企画展では立花さんの資料や証言に触れることができる、非常に貴重な機会になったと思っています。

――今回の展示で、特に注目してほしい点がありましたら教えてください。

吉國:戦争について語る上で、どうしても男性の体験が中心になりがちですが、今回の展示では、沖縄戦を体験した療養所入所者の女性の証言も紹介しています。

「五月になって数カ月ぶりで防空壕から出て、太陽の光のもとに立った時、『ああ、生きていたんだなあー』と思った。涙が痩せた頬を流れ、その涙の頬に海から吹いてくる五月の風と潮の香りと空気はおいしかった。それは忘れることができません。

――中略――

防空壕の入口に立つと、わずかに残った防潮林の間から東側の青い海が見えたのですよ」

―「上城ケイのこと」(『聞き書き集 我が身の望み』松岡和夫、1995年)

これは、国立ハンセン病療養所・沖縄愛楽園の入所者が自ら掘った防空壕「早田壕」に避難し、生き延びた方の証言です。こちらもぜひご覧いただきたいです。

中央の写真は空襲で破壊された国頭愛楽園(現在の沖縄愛楽園)。1945年における死亡者は252人と記録されている
国頭愛楽園の入所者が薬莢(やっきょう)で作った灰皿。愛らしい花の細工には、耐え難い暮らしの中でも希望を見出そうとする入所者の心情が感じ取られる

――今回、共催されたことで新たな気づきや感じたことはありましたか?

吉國:しょうけい館さんからご提供いただいた映像の中に、立花さんが「ハンセン病にかかった自分に、だれも声をかけてくれることがない、寂しかった」と語る場面がありました。

勇ましくあるべき(元)兵士が吐露したとても無防備な言葉ですよね。彼が感じていた切なさがよく伝わってくる言葉ですが、そういった気持ちをそのまま素直に言葉にできるのは、彼の強さだとも思います。

戦争体験というのは、終戦とともに終わるものではなく、亡くなる直前まで続いています。ハンセン病も同じで「ここからここまで」と線を引いて考えられるものではなく、地続きの現実として存在していた。近代の日本で行われていた過ちとして、改めて受け止める必要があると感じました。

孤独な捕虜生活中に、立花さんが毛布や天幕を裂き木箱と組み合わせて製作したトランク

半戸:戦傷病者の中には、自らの戦後の経験を語ることを避けてきた方も多くいました。立花さんも療養所での生活について一切語らず、最期まで本名を名乗ることはありませんでした。そのため、しょうけい館で保管している資料だけでは、見いだせない面があるかもしれません。

そんな中、今回の展覧会を通して、他の入所者の療養所での生活の経験や記憶を結ぶことで、立花さんをはじめ、戦傷病者の方々が語らなかった戦後の療養生活の記録や記憶をたどることが可能になる、と実感しました。

戦争体験の当事者が年々少なくなっていく中で、複数の施設が交流しながら、知見を持ち寄り、戦争の悲惨さを伝え続けることが私たちの役割ではないかとも感じています。

私たちが戦争の当事者にならたないためにも、「記憶の継承」は必要

――来館者の反響はいかがでしょうか?

吉國:僕は美術大学に通っていた学生時代に、文化人類学の授業でハンセン療養所の詩人たちと共に活動した詩人の大江満雄(おおえ・みつお)の詩や、全国の療養所の入所者たちを記録し続けた写真家の趙根在(チョウ・グンジェ)の写真と出会い、強い衝撃を受けました。それが、いまの仕事に就くきっかけにもなりました。

展覧会に足を運んでくれた大学の後輩は、展示作品の一つ、銃撃を受けた水タンクの拓本を見て「これは写真だけでは伝わらない。実物大で、身体で感じられる作品があって良かった」と言ってくれました。こうした言葉は、展示の意義を改めて感じさせてくれます。

本展覧会には、吉國さんが採取した、沖縄愛楽園の水タンクに残された砲弾跡の拓本も展示されている。協力:沖縄愛楽園自治会、沖縄愛楽園交流会館

半戸:トークイベントに参加してくれた大学1年生の方からは「ハンセン病や戦争の歴史を、次の世代につないでいくためにはどうしたらいいか考えさせられた」と感想を直接伝えてもらいました。立花さんのような戦傷病者の体験を、若い世代に関心を持ってもらうことは、私たちの役割でもあると思っています。

世間では戦時中のことに目が向けられがちですが、戦傷病者の戦後の体験についても多く知ってもらいたいと思っています。傷病を負った身体で働き家族を支えてきた方や、長期の療養生活を余儀なくされて妻が家庭を支えてきた方などの体験や気持ちを、戦傷病者から直接聞くのは難しくなっていますが、遺してくれた資料、体験記、証言などから学ぶことができます。

どのような視点からでもいいので、関心を持ってほしいと思っています。

7月26日に開催された吉國さん(左)、半戸さん(右)によるトークイベントの様子

――最後に、戦争やハンセン病問題のような残酷な歴史をくり返さないために、そして偏見や差別をなくすために、私たち一人一人にできることはなんでしょうか。

吉國:できることは、本当に少しずつでしかないかもしれません。今回の展覧会のテーマでもある「記憶の継承」とは、単なる情報伝達ではなく、もう少し広い意味での「経験」だと思っています。

僕たちができるのは、さまざまな展示を通して、戦争やハンセン病を経験した一人一人がどんな体験をして、どんなことを伝えたかったのかを来場者に手渡すことくらいかもしれません。それでも、病いや障害を理由とした差別は明らかに間違いであり、くり返してはいけない。そのことを地道に伝え続けていくしかない、と思っています。

戦争に関して言えば、決して過ぎ去ったことではありません。今この瞬間にも世界各国で戦争は起きていて、自分たちが当事者になる可能性もゼロではありません。本当に危機が訪れた瞬間に、自分たちには何ができるのかを問われているのではないでしょうか。

半戸:戦争体験の記録を残してくれた方たちの多くは、「自分と同じ経験をしてほしくない」「こういう経験をするのは自分で最後にしてほしい」と辛い記憶にも向き合い、言葉として残してくださっています。だからこそ、“昔あった戦争の話”として伝えるのではなくて、「もしも自分が同じ立場に置かれたら」と置き換えられるような伝え方を目指したいと思っています。

そして、残された記録にも、これからももっと真摯に向き合いたいと思っています。また、展示されているものだけがすべてではなくて、そこから読み取れることに目を向けてほしいと思っています。少しでも気になることがあれば、文献を調べてみたり、この記憶を次の世代につなげ、歴史をくり返さないために何ができるか、一緒に考えてもらえたらと思います。

戦争、ハンセン病問題という大きな過ちを繰り返さないために、私たちができることについて話す、吉國さん(右)と半戸さん

編集後記

半戸さんがぽつりと口にした「私たち(社会の在り方)が、立花さんの名前を取り上げてしまったのではないか」という言葉が、胸に刺さりました。記憶の継承とは、それをどう受け止めるか、見る側、聴く側の姿勢にも深く関わるものなのかもしれません。

国立ハンセン病資料館ではギャラリー展「戦後80年―戦争とハンセン病」のほか、2階常設展示室でも多くの資料を展示しています。戦争とハンセン病にまつわる「記憶」に触れ、体験者が「語ったこと」、そして「語られなかったこと」にも想いを馳せる機会になればと思います。

撮影:永西永実

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