ライフストーリー Life Stories

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カンボジア レンさんのライフストーリー

2012年3月にカンボジアで若きNGOワーカーに出会いました。
彼自身、ハンセン病を経験していますが、その経験をほかの人のために役立てながら患者・回復者の方たちのために日々がんばっています。元僧侶というとてもユニークな経歴を持つ彼。ライフストーリーを語ってもらいました。

カンボジア レン・ソフィアさん(NGOワーカー)28歳

レン・ソフィアといいます。レンというのが名字で、ソフィアが名前です。女性みたいな名前ですか?カンボジアでは男性によくある名前なんですよ。今はプノンペンで妻と暮らしています。5歳と1歳の男の子と女の子がいるのですが、普段は田舎の両親に預けています。僕も妻も、仕事がとても忙しくて子どもたちの面倒を見てあげられないので…。少しさみしいですが、子どもたちの将来のためと思えば仕事の疲れも気になりません。
しかも、今の仕事をとても気に入っているんですよ。キン・クレーンというハンセン病リハビリセンターで仕事をして5年ほどになります。もともとは僕もここで治療やリハビリを受けていたんです。ここはカンボジア唯一のハンセン病専門病院兼リハビリセンターで、全国から患者さんがやってきます。僕自身もここで治療を受けたのですが、初めてここに来た時驚いたことがありました。それは、入院していた患者さんのほとんどが、読み書きに不自由していたということでした。
勉強が好きだった僕は、入院中の暇な時間を使って、周りの友人たちに読み書きを教えるようになりました。みんなとても喜んでくれたので、僕も嬉しかったです。病気が治ってからもしばらくボランティアとして働いていました。お金がたくさんもらえることよりも、みんなに喜んでもらえることが嬉しくて続けていたんです。
そのうち、リハビリセンターの方から働いてみないか、とのお誘いを頂いたので今こうして仕事をさせていただいています。今はリハビリセンターの中だけでなく、海外からの支援で実施しているさまざまなプロジェクトのアシスタント・オフィサーとして、月に2~3回は地方へ出張に出ています。自分の経験を活かしながら、ここへ来る患者さんの気持ちに寄り添いながら働けるので、とても充実した毎日を送っています。

(会議で発言する回復者の後ろに立ち、サポートするソフィアさん)

前置きが長くなってしまいましたが、僕の生い立ちについて話しましょう。こうして改めて話すことなどあまりないので、ちょっと不思議な気持ちがしますね。でも嬉しいです。
僕は1984年、プノンペン近郊のカンダール州で漁師をやっていた両親のもと、5人きょうだいの3番目として生まれました。暮らしは貧しく、度重なる洪水のために家を流されたため、僕が物心ついた頃には一家でボートの上で生活していました。ボートでどうやって生活するんだ、とお思いですか?衣食住、全てボートの上で行うのです。もちろん、火を使った料理だってできますよ。しかしやはり定住せずに5人のこどもを育てるのは大変だったらしく、僕が7歳になった頃、両親はやっと定住先を見つけました。
とても貧しい生活だったのですが、両親は僕ら子どもたちにできる限り勉強させようと考えていました。当時、家から学校まで往復4時間かかったのですが、それでも学校にいかせてくれました。僕も学校が大好きでした。3年生まではクラスのリーダー的存在だったんですよ。特にクメール文学が好きな子どもでした。3年生も半ばを過ぎた頃、父が体調を崩して漁へ出られなくなりました。一番上の兄は出稼ぎに行き、二男である僕は父の代わりに漁をやるようになりました。もちろん最初は見よう見まねで始めましたが、家族が食べていくために必死だったので学校もやめ、毎日漁へ出て魚をとりました。でも心の中ではずっと、学校へ行きたい、勉強を続けたいという気持ちがあったんです。貧しい状況はよくわかっていましたから、両親にはなかなか言い出せませんでしたけど。
そうして3年ほど経ったころ、どうしても学校へ戻りたいという気持ちを捨てきれなかったので、思い切って両親に話してみました。僕の気持ちを理解してくれた両親は、僕が叔母の家から学校へ通えるように親戚に頼みこんでくれました。そうして何とか叔母の家から学校へ通うことが許されたのですが、そこでの暮らしは楽なものではありませんでいした。学校から帰ると、すぐに田んぼでの作業や家事など、夜遅くまで大人達の手伝いをさせられ、宿題をする時間など全くありませんでした。成長してくると、もっとたくさんの仕事を任せられるようになり、そのうち学校へ行くことすらままならなくなってきてしまいました。
親戚から「食べさせてやっているんだから働いて当然」といわれたことも一度や二度ではなく、そうなると立場の弱い僕は何も言えなくなってしまいます。かといって、十分なご飯をもらっていたわけでもなく、いつもお腹をすかせていました。その頃僕は13歳か14歳だったと思うのですが、お腹一杯ご飯を食べて、思う存分勉強したい!と強く願っていました。そしてそのためには、僧侶になればよいのだと考えるようになりました。
今思えばずいぶん子どもっぽい考えだったな、と思うのですが、確かに、お寺で暮らす僧侶は食べ物には困りません。また、学校にも無料で行かせてもらえるのです。当時の僕は、だんだん僧侶になることで頭がいっぱいになり、他に道はないと考えるようになりました。そんな僕の話に、最初両親は反対しました。「まだ若すぎる」と。しかし最後には僕の熱心さに根負けして、パゴダ(寺)へ入ることを許してくれました。

寺に入った初日のことは、今でもよく覚えています。真夜中、しぃんと静まり返った寺の中で一人目を覚ました時、家族が恋しくて仕方なくなり涙がとめどなくあふれてきました。でもその時思ったのです。しっかり勉強して、人生を良くしたい。そのためには一人で強く生きていかなければいけないのだと。
1999年、15歳でパゴダに入った僕は、そこで1年間勉強し、翌年晴れて僧侶となることができました。皆さんもうお気づきのように、僕の僧侶になりたい、と思った一番最初の動機はとても子供じみたもので、ご飯をお腹いっぱい食べたい、学校へ行きたい、というものでした。でも勉強を始めてみて、仏教の深さに魅了されていったのです。僧侶となった後も、僕は勉強を続けました。2002年、僧侶となって初めて両親の家へ帰りました。袈裟をまとった姿を見た両親は、嬉しさのあまり涙を流していました。その頃には給与をもらうようになっていましたので、それを両親へ渡し、弟と妹の学資にしてもらいました。兄も姉もプノンペンで働き、実家に仕送りしていましたので、この頃から実家の生活も少しずつ良くなってきていました。自分の好きな勉強を続けながらも両親やきょうだいを助けることができ、とても充実した生活だと満足していました。でも、それも長くは続きませんでした。

2002年になったころから、体の異変を感じるようになりました。腕や足に赤い斑紋が出て、体が熱っぽくほてるのです。医師には何度もかかっていたのですが、いずれも原因がよくわからないということで、処方された薬を飲んでも症状は改善しませんでした。ある時、僕の症状を見た一人の医師が、プノンペンのハンセン病・結核病院へ行くよう勧めました。
長い間症状が改善せず、むしろ悪化の傾向を見せることにいら立っていた僕は、深く考えることなくその病院を訪れました。友人も気軽についてきてくれました。その病院で僕を診療した医師は僕を見るなり「どうしてここまで放っておいたんだ!」と大声で言いました。そして一言、「ハンセン病です」と告げました。「ハンセン病」というのが何なのかわからなかった僕は、おもわずそのまま「ハンセン病?」と聞き返しました。すると医師は低い声で「それはクルン(Klung)のことです。」とクメール語で言い直しました。
クルン、という言葉を聞いた途端、僕の頭の中が真っ白になりました。そして我に返った時、涙が頬を伝って足元へ落ちているのに気付きました。「差別」「偏見」という言葉が頭の中をぐるぐると回りました。絶対に差別され、ぼろきれのように扱われれるのだ、と絶望的な気持ちになりました。僕はそれまで、ハンセン病だという人に会ったことがなかったのですが、彼らがいかにひどい扱いをうけているかについては人づてに知っていました。一緒に病院までついてきてくれた友人は、クルン、という診断名を聞いた途端に顔がこわばり、そそくさと僕を置いて病院を去りました。
医師は僕が少し落ち着くのを待って、ハンセン病が今ではMDTという薬を飲めば完全に治るのだ、ということを優しく教えてくれました。しかしその時の僕は、その言葉を素直に受け入れることすらできず、ひたすら絶望した気持ちを抱えたまま、ひとりパゴダへ戻りました。
月がとてもきれいな夜のことでした。

(MDT治療を呼びかけるポスター)

パゴダに戻ってからは、誰にも会いたくありませんでした。自分の部屋に鍵をかけ、周りの人には病気だとだけ知らせてひたすら閉じこもり続けました。月に1度、MDTを取りに病院に行く以外には、ほとんど外へ出ませんでした。そんな生活をほぼ1年間続けました。
どうしてそんな態度をとったのでしょうね。今から思えば、友人たちから差別されるのがとても怖かったのだと思います。あの日、一緒に病院へついてきた友人は、僕がハンセン病だという噂をすぐに広めました。これまで親しかった友人の態度が変わることは明らかでした。それを知りながら、外に出かけていくことなんてできなかったのです。1年間のMDT治療の末、少しずつ体調は良くなってきました。体じゅうに広がっていた斑紋もずいぶん消えました。一部、手足と顔に少し障がいが残ってしまいましたが、少しずつ外出する勇気も出てきて、体調と気分が良いときにパゴダの中で子どもたちにクメール文学を教えたりしていました。
そんな時、友人の一人からプノンペンで英語を勉強しないかと誘われたのです。彼は僕がハンセン病だったとは知らなかったようです。突然の誘いだったのでかなり迷ったのですが、パゴダに閉じこもってばかりの生活を続けるわけにはいかないと思っていましたし、これからは英語が重要になるだろうと考えたので、一緒にプノンペンへ行くことにしました。
ところが、新天地での新しい生活に気持ちを新たにしていた矢先、らい反応に見舞われてしまいました。体の腫れ、関節の激しい痛みに苦しんでいた時、人づてにキン・クレーンリハビリセンターの存在を知ったのです。キン・クレーンでは本当に様々な人と出会いました。プノンペンからずいぶん遠いところから治療に来ている人もたくさんいましたし、厳しい差別にあって笑顔を見せなくなってしまった幼い少女もいました。そこで同じ経験をした者同士、一緒に励ましながら治療やリハビリを受け、絆を深めていきました。
体が回復してきて気持ちに余裕が出てきた時、ここで出会った友人たちのためになにかしたいと思うようになったのも自然な流れだったんです。それで冒頭の話に繋がるわけです。

(普段はお茶目なソフィアさん)

そう、その頃僕はまだ僧侶のままでした。でも、キン・クレーンでの仕事のお話を頂いて、熟考した結果、僧侶を辞めることを決意しました。なかなか想像しにくいかもしれませんが、この国で、僧侶というのはとても尊敬される存在なのです。一般の人々と同じ立場で仕事をすることができません。僕は、自分と同じように辛い経験をしたハンセン病患者・回復者のみなさんによりそって、同じ目線で仕事をしたいと思ったので、僧侶を辞める決断をしました。決断するには勇気がいりましたよ。でも田舎の両親もは後押ししてくれました。自分の経験を他の人のために役立てなさいと。
先ほども言いましたけど、今はとても充実しています。家族がいて、人に喜んでもらえる仕事があって。最近は、夜間の大学にも通い始めたんです。講義は全部英語なんですよ。大変ですけど、勉強するのは本当に楽しい。たまには辛いこともありますよ。ハンセン病の回復者だ、って未だに差別されることだってあります。でも、ここは力を込めて言いたいんですけれど、僕はもう、誰が何を言おうと気にしない。支えてくれる家族もいます。友人もいます。外国人の友だちだっている。自分に自信を持てるようになりましたから。
(プノンペン、2012年3月)

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