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インドネシア ブディさんのライフストーリー

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こちらも今後を期待される若きNGOワーカー。インドネシアのブディ・ユウォノさんです。パティシエ、そしてカメラマンと、多彩な才能を持つ彼。NGOワーカーとして歩み始めたきっかけは?そしてこれからは何を極めていくのでしょうか。
今回はインタビュー形式でどうぞ(本インタビューは、掲載に関しご本人の許可を得ています)。

Q.ブディさんはパティシエをされていたそうですが?
A.そうです。高校卒業後、観光の専門学校で料理と菓子作りを学びました。
僕はマラン(注:東ジャワ州の都市)出身なんですけど、観光学校はバリにあったので単純に楽しそうだなーと思ったんです。勉強もそれほど好きじゃなかったし、かといってこのまま仕事をする気もなかったし。まぁ若い時ってそんなもんですよね(笑)。でもやってみたら面白かった。けっこう真面目に通っていたから成績もそこそこ優秀だったみたいで、学内選抜でシンガポール研修に行かせてもらったりしましたね。シンガポールでは一流ホテルの厨房で1年半くらい働いていました。研修とはいえそれなりに仕事を任されるので、やりがいはありましたよ。そこでは共通語が英語だったので、否応なしに英語も身につきました。学校を卒業して半年くらいは国内で働いていたんですが、あるとき外国の客船で働かないかと誘われたんです。二つ返事でOKしましたよ。もともと好奇心旺盛なのでね。アメリカの船会社が運営するカリブ海クルーズ客船の厨房で2年ほど、そして今度はヨーロッパ周遊船で半年くらい仕事したかな。

Q.カリブ海!楽しそうですね。ヨーロッパ周遊船の仕事はどうして辞めたのですか?
A.客船での仕事はきつかったけど、色んなところを旅することができたのでとても気に入っていました。でもちょうどヨーロッパにいた時、ハンセン病を発症したんです。2008年のことでした。体中に赤い斑紋が出てきて、会社から医者に行けと言われました。最初は何かのアレルギーだと思ってたのですが、大きな病院に行っても何が原因なのかよくわからないと言われ、とりあえず処方された薬を飲んだけど全く治らない。そのうちに斑紋がどんどん増えてきて、おかしいなと思い始めました。大きな病院を何箇所かめぐって、やっと判明したのはスラバヤ(注:東ジャワ州の州都)の保健所でした。この保健所に、ハンセン病研究の権威であるインドロポ先生の教え子の医師がいらっしゃったんです。しかし、診断後も大変でした。MDTが体質に合わなかったようで、半年で投薬を中止しました。普通の人なら最長1年間の投薬で治るところ、僕の場合はトータルで1年半かかりました。斑紋が消えるまでは3~4年くらいかかったかな。友人たちには、アレルギーだと言い続けました。今でもほとんどの友人は僕がハンセン病だったということを知らないと思います。こういう仕事をしていますが、自分に対する偏見や差別を乗り越えるのは、やはり簡単なことではないですね。

Q.現在、カメラマンとしても活躍されていますよね?カメラとの出会いは?
A.まぁ活躍というのはいいすぎですけど(笑)、モデルを使って撮影したり、結婚式の写真を撮ったりという程度ですが楽しんでます。最近はNGOの仕事が忙しくてなかなか時間がとれないのが残念です。ハンセン病を発症して、治療を開始した2009年頃始めました。船の仕事はとっくに辞めていましたし、友人とも会いたくなかったので家にこもっていました。何か夢中になれるものを探していたんです。最初はポケットカメラで撮影を始めたのですが、ほとんど独学ですよ。世の中には自分の能力やスキルを他の人とシェアしたがらない人がいますよね。カメラ業界もそんな人が多くて、あまり教えてもらえなかった。だから自分で見よう見まねで始めたんです。そんな経験があるから、自分はできることであれば何でも快くシェアするようにしてます。そうすることで、みんなで豊かになれるでしょう。

Q.今はインドネシア初の回復者組織、PerMaTaのプログラム・マネジャーという立場にあるブディさん。PerMaTaとの出会いは?
A.投薬治療を受けていた時お世話になったディアナ先生という方に紹介してもらいました。ディアナ先生はもともとスラバヤで皮膚科医をされていた方なんですが、インドネシアの回復者にとって「母」のような存在で、いつも優しく、時には厳しく僕らを支えてくれています。

PerMaTaメンバーと活動の進捗について話し合うブディさん

ハンセン病だと診断されて家に引きこもっていた時、仕事や恋人を失ったこともあって、ずいぶん長い間失意の中にありました。そんな僕を心配したディアナ先生が、気晴らしにと声をかけてくれたのがPerMaTaの集会でした。自分と同じ境遇にある友人たちに出会って、年上の方々からは温かい励ましを、そして同年代からはともに生きる勇気をもらい、「家族」ができたような気持ちになったんです。そして、ひきこもっていた時の自分のような、絶望を感じているだろう友人たちのために何かしたいと思ったのがきっかけです。

Q.PerMaTaには将来どうなってほしいですか?
A.そうですねー、いつになるかわからないですが、将来的には独立して運営できるようになってほしいですね。今は笹川記念保健協力財団やオランダハンセン病協会といったドナーの方々に支援してもらっていますが、それぞれのメンバーが協力してビジネスを立ち上げたり、地元の企業の支援をとりつけたりということも考えてます。あ、それから今すぐには無理かもしれませんが、僕のような有給スタッフがいなくても団体が運営していけるようになったらいいですよね。今、ほとんどのメンバーは教育レベルもあまり高くありませんし、コンピューターを使える人も多くありません。でも、さまざまなトレーニングの機会を頂いているので、今後メンバーたちがどんどんスキルを身につけていって、PerMaTaの活動に大いに貢献できるようになったら嬉しいです。

Q.最後に、将来の夢について聞かせてください。
A.ははは・・・これ、一番難しいです。うーん、そうだなぁ。良い夫になること(笑)。そして、自分のビジネスを始めて妻と子供を幸せにしてあげたい。もちろん、ハンセン病回復者の仲間たちのための活動は一生続けていきたいです。