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マスクの話 神奈川学園中学校2年生の文化祭事前学習

一昨年の5月か6月頃、小欄でマスクの話を書きました。それを読んで下さった神奈川学園中学校2年生の生徒たちから、財団に電話がかかってきたのは2022年の7月でした。文化祭の事前学習でマスクについて調べているので、少し話を聞きたいとのことでした。担任の先生を介して、クラス全体にお話することになり、過日9月2日に横浜駅から車で5分ほどの神奈川学園中学・高等学校に参りました。

授業の様子、まずは自己紹介

中学2年生というと14歳!後期高齢者の私には、お若いなどというレベルではなく、何もかもが、まるで違う世界の住人・・・と云うより異な生物(失礼!!)のようなものです。が、皆、ちょっとモダンなセーラー服の制服も素敵で、礼儀正しく、45分ほどの話を聞いて下った上、何人かが質問もしてくれました。実は、ウン十年昔、私が通った大阪学芸大学(現大阪教育大学)の制服もセーラー服だったので、取り分け、懐かしく感じました。

14歳の学生たちが関心をもたれたのは、ブログに引用した14世紀頃のペスト流行時に医師が使用した鳥のくちばしのようなマスクで、それは現在とは異なる考えから使われたものでした。(「マスクの話 その2」2020.6.1 参照)中学生の、まだ、頭が柔らかで、知識をいくら吸収しても、どんなに難しいことを考え続けても、脳みそが疲れない時期に、色々、雑多なものに関心をもって、ある程度の深さまで調べることで、将来の学習力が深まります。月末の文化祭に向けて、さらに広く深く調べて欲しいと願いました。

さて、時折引用する世界的な医学ジャーナルNEJM(New England Journal of Medicine)2022年9月8日号に興味深い記事が出ています。「公衆衛生における科学、競合する価値そしてトレードオフ(両立し難い関係性)ーCovid-19とマスクをすることを例として “Science, Competing Values, and Trade-offs in Public Health — The Example of Covid-19 and Masking”」です。

公衆衛生とは、何となく判っていて、何となくつかみどころがない・・・と思われがちですが、実際、そうでもあります。私は40年も昔、開発途上国の病院など医療施設がない地域で働いた時に、この「パブリック/Public/大衆」の「ヘルス/Health/保健・衛生・健康」を扱う分野に、どっぷりと浸らされました。当時は先端医療であった新生児医療においては十分経験を積んでいましたが、病院がないはおろか、電気も水道もなく、食べ物にも事欠くような状況下で何万という難民・避難民の健康を護るのが仕事という世界・・・つまりパブリック・ヘルスしかないところでの私は、今でいう国際保健においては、まるで初心者でした。もちろん、それよりさらに大昔、医学部で公衆衛生は学んではいたのですが、医療施設や保健所があって、医師も看護師も保健師他多様な保健専門家が存在するところ・・・日本で経験するパブリック・ヘルスの何と上品なものであったか!と思い知らされたのです。

その後も、24時間どころか昼間でもきちんと機能している病院や医院などはなく、さらにきちんと訓練を受けた医師も看護師もいないのが当たり前の地域での保健医療活動に関与しましたが、そのようなところでは、病気を治すという深い医療技術や知識よりも、浅くとも広い知識や基礎的対策で病気を防ぎ、健康を護るパブリック・ヘルスこそが重要、というより、それしかなかったのです。

日本の保健所は、そのパブリック・ヘルスのみを担当しますが、途上国では、少しでも専門的医療・保健知識がある人材が存在するならば、ヘルス・センター(日本式で云うところの保健所)でも基礎的医療行為やお産を扱うのが普通です。多分、今もそんなところはあるでしょう。

New England Journal of Medicine 2022年9月8日号より一部抜粋

さて、NEJMの記事の概要です。

「公衆衛生機関(日本では保健所や行政の保健担当部門も含まれましょう)は、長い間、個人の自由尊重と疾病の脅威から社会をまもることの間にある。一時的には個人の自由の制限を伴うという難しいバランスをとってきた。個人の自由と大衆の健康のバランスは、過去にも国民的議論や法的議論があった」として、1905年の連邦最高裁判断(Jacobson v. Massachusetts事件ーパブリック(住民集団)のヘルス(健康)維持のために国家が予防接種を強制し、人々が自分の身体=健康を自分で守る権利を損なうこともあると判断)をあげている。つまり、致命的疾病から個人を守るためには地域社会と競合する強権も必要だ・・・

ついで、現在のコロナに論をすすめ「新型コロナパンデミックの状況は急速に変化し、病原体であるウイルス(SARS-CoV-2)に関する知識は増え、選択肢も複雑化した。パンデミック初期には、個人的自由(の制限)に関する検討に国民関与がないまま、公衆衛生当局が、かつての呼吸器系ウイルス対策の経験に基づき判断したが、今では、公衆衛生機関や同専門家間でも、どうするかをきちんと議論しないままやってきたので、例えば、マスクをするかどうかを個人決定する権利とコロナ感染から保護される権利という競合する権利がゴチャゴチャになっている。マスク義務化は自由を侵害し、マスクしないことは他人を傷つけるに等しいという絶対主義的表現があり、様々なマスク政策の大事な議論がかき消されてしまった。」と反省しています。

そして「現実が複雑なことを述べています。過去2年間優勢だった「何でもあり」論争は、公衆衛生当局がしなければならない難しい選択と、マスク義務化を検討する際に考慮されるべき様々な要因をうやむやにしたが、これは、コロナ感染率に幅がある地域社会でのマスク有効性に関するエビデンスと様々な社会的背景下にマスク着用の潜在的不利益、どの集団が高い感染リスクをもつかなどなど、検討するべき諸々があることと、パンデミック初期には、ワクチンは入手できず、予防策に役立つ疫学的証拠も限られ、感染リスクも高く、政府のマスク義務付け決定が簡単だったし仕方がなかった・・・しかし、パンデミック継続している今は違う、より複雑だ」とし、「パンデミックが進んだ現在、つまり効果的ワクチンが使え、公共の場でのマスク効果とマスク弊害のあれかこれかがより微妙になっている今こそ、マスクをすることの意義を公衆衛生機関が再検討するべきだ」と述べています。

「マスク義務化の負の影響を受ける公共の場の例として食料品店をあげ、地域のコロナ流行程度が低ければ、健康な普通の客にマスク義務化はあまり意味をなさないが、黒人、ラテン系だったり貧困層だったり、高齢者と同居していたりが多いレジ係のスタッフのリスク程度は顧客と違うため、地域感染レベルが低くても、マスク着用が有効で、さらにマスク着用に関し客と悶着するための対策が利益が上回らない場合もある・・・このような地域特有の判断ができれば、全面的マスク政策の必要性はなくなる。公衆衛生機関の大事な仕事は、地域行政指導者の意思決定の指針となる情報、リスク評価や枠組みに役立つデータ提供でもあろう」と示唆しています。

もう一つ上げている地方裁判所の例は、ちょっと日本ではない陪審員制度なので省略します。

最後に「公衆衛生機関の役割は、科学に基づく勧告を進めることであるが、最終的決定のためには、幅広い問題をも考慮しなければならず、そしてその多くが公衆衛生当局の権限外であることも多いため、特に地域関係者を排除して単独で判断してはならない。コロナ関連の公衆衛生的決定には、複雑なバランスが必要で、学校閉鎖などの決定は、次の世代にも大きな影響を与える可能性がある。コロナ流行開始と時を同じく差し迫った連邦選挙や住民の主要な交流の場としてのソーシャルメディアの隆盛も重なり、公衆衛生関係者がコロナ関連の意思決定の際のトレードオフについて、真剣に議論する能力が制限されてしまった」と、ちょっと恨み節を述べた後、「このような動きをも踏まえ、パンデミック時代の多様な意思決定には、さまざまな権利をも勘案して、透明性のあるバランス感覚の必要性を認識する時期に来ている。複雑な意思決定は、公衆衛生機関によって広く公の場で議論されるべきだ。同様に、公衆衛生専門家は、ニュアンスの異なる質問に普遍的で正しい答えがあるとソーシャルメディアに示唆することをやめるべきだ。パンデミック時の公衆衛生機関の第一の目的は、初期の危機的段階が過ぎたら、現地パートナーが様々な文脈で様々なトレードオフを検討するために使用できるデータと意思決定の枠組みを提供することだと私たちは信じている。このような地域パートナーには、地域政府の指導者、民間企業経営者、市民団体、教育委員会、医療施設などの利害関係者が含まれる。複数の視点、特に公衆衛生政策の影響を最も受ける集団の視点を考慮することがより強固な意思決定を可能にし、自由を制限する決定をしなければならないときに、国民の信頼を高めることになる。」と公衆衛生機関の役割を明確化しています。

やっと第7波も鎮まりつつあるように思います。5類への移行、感染者の数報告の変更などの改変も議論されていますが、要は、個々人が感染をどう防ぐか、もし感染したらどう対処するか、国民としての姿勢も大事だと思いませんか?