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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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アメリカを知る

先週、駆け足でアメリカ訪問記を書きました。私が初めて暮らした外国は、1970年代後半のアメリカ・ノースカロライナ(NC)州チャペルヒルでしたので、同地は、実に四十数年ぶりの再訪でもありました。

個人的に記憶するアメリカの最初は、第二次世界大戦後の日本に進駐したアメリカ兵でした。幸い、郷里の宝塚あたりでは、厳しい子どもの飢餓や孤児状態は蔓延しておらず、ややのんびりした農村地区だったこともあって、兵士がチョコレートやチューインガムをばらまき、子どもがそれに群がったような記憶はありません。が、時折見るジープに乗ったMP(Military Police、軍警察=憲兵隊)と記されたヘルメット姿を何となく畏怖したり、ヒラヒラとけばけばしい服装の日本人女性(パンパンとよばれた街娼・・・でした)をまとわりつかせた背の高い、そして碧眼金髪の兵士たちをちょっと嫌悪的に眺めたりした子ども時代を思い出します。その後学んだ学芸大学付属中学では、試験的な米国人教師による英語教室で、生の、本物の英語を耳にしました。1950年代でした。

第二次世界大戦では本土が巻き込まれなかったアメリカは、その後、唯一の超大国でした。しかし、戦後まもなくと云うより戦争に続いて、早くも1946年頃には始まった旧ソビエト連邦を中心とする、いわゆる東側との冷戦構造、朝鮮動乱(1950~53)、ベトナム戦争(1960~75)への介入(1964~75)はあり、膨大な軍需出費や人的被害はありましたが、いずれもアメリカ本土は無傷でした。1960年代、若きケネディ大統領の時代、国外での戦争に伴う「ニュー・エコノミクス」景気もあって、アメリカは経済成長まっしぐら。日本は、初めてのオリンピック、そのための新幹線、東名高速道路・・・まぶしいアメリカのように、との想いが広がっていたように思います。しかし、キューバ問題(1962)、ベトナム介入の失敗、そして希望と発展のシンボルのようだったケネディ大統領の暗殺(1963)、その前後のマーティン・ルーサー・キングJr.牧師らの公民権運動、そしてその暗殺(1968)など、思えば、現在につながるアメリカの分断の兆しは、実はこの頃にあったのではと思い返すこともできそうな時代でした。

私が初めて住んだ頃、70年代後半のアメリカは、国が荒れている・・・とは云いすぎかもしれませんが、思っていたような憧れの国ではなく、何だかギスギスしていました。アメリカの中で、NC州は、かなり開発が遅れたいたそうで、先週書いたようにNC州リサーチ・トライアングル・パークは地域の開発運動でもあったのです。のどかなトウモロコシやたばこ畑が地平線まで広がる広大な農村部の近くの大学街・・・今から考えれば、古き良き時代でしたが、「祖父は、祖母は奴隷だった・・・」とおっしゃるアフリカ系の人々の想いを、あの頃の私はどのように理解できていたのか・・・

さて1970年代末頃、日本では検査医学を専攻し、結構、面白い斬新な機器開発に従事していた私には、失礼ながら、当時のアメリカのやや田舎の大学病院や研究所の検査機器レベルはそれほど目新しくはなく、一見、簡単に追い越せそうにも感じられました。しかし、個々の研究者の発想の面白さや、全体を統括する立場の人々の姿勢、システムのダイナミックさは、教授を頂点とする、どこもかしこも同じ形、ヒエラルキー一色の日本とは全く異なっていました。十分活用されてはいませんでしたが、すでにコンピューターは各所に置かれていました。そして、毎月、ニューヨークのモンテフィオーレ病院とアルバート・アインシュタイン医科大学に伺って回診や講義に入れて頂いていたスぺート先生宅には、2台のコンピューターがありました。個人的に触ったコンピューターの最初は先生宅、やったことの最初はチェスゲームでした。そもそもチェスが判らなかったので、何度も負けましたが、数度負けると、画面には、「お前の負け!」に加えて、「お前はバカ!!」と出ました。

1980年代から90年代、わが国は『ジャパン・アズ・ナンバーワン(エズラ・ボーゲル 1979)』の時代を満喫したようでした。国際保健分野に転向した私は、各所で日本、日本、日本をまぶしい思いで見ました。世界のどこに行っても、日本がありましたし、私ごときが泊まるホテルのすべてでNHK海外放送が流れていました。1991年、短期間学んだジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生学大学院にも、数名の日本人学生がいました。あちこちの有名大学にも日本人が複数学んでいましたから、互いに行き来したものでした。

そんな状況は、なぜ、消えたのでしょうか?同時に、アメリカにとっては、初の本土攻撃でもあった2001年9月11日の同時多発テロの後遺症は癒えているのでしょうか?

今回泊まったなかで、シアトルとシカゴは産業でも活発な街ですが各1泊ずつ、ダーラムとボルチモアは2泊しましたが、いわゆる経済や産業の大都市ではなく、どちらかと申せば、アカデミックな街でしょう。でも、そのどの街のホテルでも日本語放送はなく、また、大学のキャンパスには東洋系の若者があふれているにもかかわらず、日本人の姿は皆無とは申しませんが、目立ちません。内向きの日本人・・・と云われる事態を痛感しました。

何度も銃撃戦が繰り返され、国の為政者レベルが分断をあおっているようにも見えるアメリカ、世界の紛争、もめごとの背後には、必ずと云ってもよいほど、その姿が見え隠れするアメリカ。この国が引きずっている何か、9.11との関連・・・ふと気になることもあります。

CNNの報道(2023.1.14 https://edition.cnn.com/2023/01/14/politics/biden-kishida-japan-foreign-policy/index.html)

私どもの訪米中に、岸田首相の訪米、初のバイデン大統領との会議が持たれました。もちろんCNNはじめTVでは取り上げられていましたが、熱狂的には程多く、私が面談した人々の話題には上がりませんでした。ちょっと悲しい・・・

産業・経済の発展だけでは、人類は幸せにならない・・・だから科学・・・医学、保健学そして政治、文化が必要なのだと私は考えます。分断・断裂、対立や紛争にどう対処するか、出来るか。私ども笹川保健財団の「Sasakawa看護フェロー」の留学生は、まだ3人ですが、アメリカという国のダイナミズムと、この大国が抱える多様な問題を体感し、そして看護を通じた社会改革に貢献して欲しいと痛感しました。