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『火口に立つ。』松本薫 「生田長江の物語」を読む

かなり古いのですが、小欄の2017年5月17日で生田長江を取り上げたことがあります。(「わが国に知の世界を広げた『生田長江』」2017.5.19

思い返せば、所用で訪れた鳥取県庁のロビーで、『郷土出身文学者シリーズ』という薄い冊子の中に生田長江〈イクタチョウコウ〉を見つけ立ち読みした時、心がザワッとしたものでした。もちろん、書籍は購入しました。ハンセン病対策のために設立された公益財団法人笹川保健財団に勤めて以来数年、関連書物の多くは手にしましたが、この生田長江がハンセン病を病んでいたことについては知らなかった・・・のです。そして、これが機会となって読んだのが2013年出版の荒波力著『知の巨人 評伝生田長江』でした。

毎度の古い話ですが、高校生の頃、毎日「ニーチェ!ニーチェ!」と鳴いていた友人がいました、その影響で、ニーチェの『人間的な、あまりに人間的な』とか、『ツァラトゥストラかく語りき』を読みました・・・というより、読まされました。よく理解できませんでしたし、その本の翻訳者が長江だったというかすかな記憶で翻訳者だと思っていました。が、明治後半から大正そして昭和前期に外国の知的な諸々を日本に導入し続けた、もちろん、翻訳しなければ導入できなかった知識が大半でしたが、小説家、評論家そして劇作家でもあり、そしてこれらの時代のほとんど全部といってもいいほどの文筆家や社会活動家を育てた人でもあるのです。今回、出版された松本薫氏の『火口に立つ。』を読んで、改めて、長江は思想家でもあり教育者だと思いました。

数年前に戻ります。鳥取で生田長江の冊子を手にした後の2018年3月末、兵庫県豊岡市に所要があった折に生田長江の生まれた鳥取県日野郡貝原村・・・現在の鳥取県日野町根雨に参りました。

車を飛ばせば2時間半くらいですよ!といわれたのですが、JRで参りました。
豊岡駅から山陰本線を西に向かって鳥取駅、そこで確か各駅停車に乗り換え、もう一度乗り換えて伯耆大山〈ホウキタイセン〉駅へ。そこからは伯備線で南下、40分ほどで根雨という駅に着きました。

生田長江記念コーナーがあるという、駅からすぐ近くの町立図書館にお昼すぎに参りました。ランチを頂けるお店が少ないので先に腹ごしらえをとお勧め頂き、近くのおうどん屋さんにまいりました。川の傍のそのお店で教えて頂いたことは、日野町には、毎冬、千羽に近いオシドリが飛来すること、運がよければ3月でものんびり屋のおしどりが残っていることがある・・・で、慌てて川に出ましたが、ただ早春のやわらなか日差しの中を、さらさらときれいな水が流れているばかりでした。
生田長江の記念碑の前で、記念写真を撮って頂きました。

生田長江記念碑の前で
豊岡駅から根雨駅まで
日野町のオシドリ(日野町HPより)

それから、早7年、能登半島の地震、稀有な飛行機事故と年初から緊張もあった私が手にした2024年最初の手紙はその日野町からでした。

2018年にお話をうかがった日野町図書館長松田暢子氏からで、現在は小説「生田長江」を出版する会の事務局を担当されていること、表題の生田長江の一生を追った小説『火口に立つ。』が出版されるとのお知らせでした。

松本薫著『火口に立つ。』は、525頁の大冊です。
長江の一生を追う・・・という点ではドキュメンタリーですが、とても興味深い人物が創作されていますので、その点では興味深い小説でもあります。なんでこんな面白い本を既存の出版社でなく、【小説「生田長江」を出版する会】が出版しているのか・・・と思いました。

長江こと生田弘治は、1882(明治28)年に鳥取県日野郡に生まれています。私の祖父が明治23年生まれなので、その世代なのだなと思いながら、その一生を辿りました。
根雨という街、少々不便でも自然の中に暮らしたい私好みの自然豊かな、そして多分に過疎化した街でした。山陰線が全線開通したのが1933(昭8)年ですが、伯備線は1919(大8)年に着工され全線開通は1928(昭3)年です。こちらのほうが少し早いのですね。生田長江は、それよりも早く生まれていますし、昭和3年頃は既に東京ですから、街中が歓迎したであろう鉄道開通は地元では見ていないでしょう。
長江は、高等小学校を卒業した翌年といいますから1896(明29)年、14歳で大阪の次兄を訪ね、大阪の中学に編入しました。また編入の翌年、洗礼を受けプロテスタントとなっています。17才で東京に向かい、18歳で第一高等学校、1903年に東大・・・東京帝国大学文科大学哲学科で美学専攻です。とてもとても賢い方だったのでしょうが、それにもまして勉強がお好きだったのでしょう。
詳しくは2冊の評伝をご覧いただきたいのですが、少し硬ぁ~い感じで学っチックな長江業績を追うなら荒波力『知の巨人』(白水社)です。何度読んでも・・・といっても2、3回しか読んでませんが、何か新しい気づきがあります。

一方、少し柔らかに長江を知りたいのなら、今回出版された松本薫『火口に立つ。』(小説「生田長江」を出版する会)をお勧めします。同一人物を追っているのですから、当たり前ですが、その一生に起ったことも、向かわれた先も同じ・・・の感ですが、前者の読後では頭の中がキーンとするに対して、後者は、同じ頭でも、頭がというよりは心がジワ~、モワ~としました。
『火口に立つ。』には、著者が創作された、魅力的な数人が長江の周りにいます。その人々は、それこそが長江の苦悩の原因であったであろうハンセン病の存在をしなやかに受け止められているように思いました。どちらにも描かれているハンセンをめぐる状況は、何度読んでも、ある種の憤り的想いと涙を誘います。
ただ今回、『火口に立つ。』で、気づいたことは、長江自身がどう思っていたか・・・そんなことを忖度することは傲岸不遜ですが、あえて記します。
優れた才能を持ちながら、若くしてハンセン病に罹患していることを察知していた長江はどんな気持ちで日々を過ごしていたのか・・・すでにそれが弱い感染症であり、遺伝やいわれなき差別を受けるべき病ではないことをきちんと理解していたとしても、周囲の人々がどう考えていたか・・・既に設立されていた隔離病院の存在も差別を受けてきた病者がいることも十分承知の上で、表面的には平静を装っていたのでしょうか。それとなく自分を避けようとする友人がいたこと。それらの人々は新しい時代を切り開く知的な人々だっただろうと思うと、悲嘆でもない苦悩でもない、ちょっと偏見発言ですが、自分とは異質な人々と思ったかもしれない。ただこの病気のことを口に出して話せないもどかしさ、それこそがこの病気のこの病気たる所以であったのでしょうが。そのような、時代を切り開いてゆく自分の考えにも近い理性的な人々の中にあったかもしれない想い・・・・

『火口にたつ。』での長江が教育者だと思ったが故に、余計そう思いました。
『火口にたつ。』は、大正から昭和にかけて、日本が精神的発達とでも申したい変容を遂げた時代の中で、とりわけ今風にはジェンダーといえる流れを切り開いてゆく人々、女性たちを扇動しつつある長江が占めた特異なといってもいいような役割も詳しく書かれていると思いました。

小説としてこの本を読み、ドキュメンタリーとして思想史を学ぶ、地震に事故に各地の紛争に、新春とも云えない如月でしたが、最初の3連休を堪能させられた一冊でした。