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Chair's Blog 会長ブログ ネコの目

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烏城の宴 日本財団在宅看護センターネットワーク1期生の10年 その1

岡山県には、いくつも有名なお城があります。

猫のさんじゅーろー殿が城主をつとめる備中松山城(参照:ブログ『備中松山城のネコ殿さま 「さんじゅーろー」』(2023年4月14日))は、日本に現存する12天守中、唯一の山城・・・つまり高いところにあるお城です。海抜480mの臥牛山の山頂近くにあり、時期によっては壮大な雲海がみられます。私には登城必須のお城ながら、まだ、殿に拝謁の機会はありません。

文藝春秋4月号』のグラビアに取り上げられている美作国(みまさかのくに 岡山県の真ん中あたり)津山の津山城、正確には城跡ですが、桜の名所です。さらに県の西にあたる備中(びっちゅう)には、まだ羽柴を名乗っていた秀吉が信長本能寺の変の際に水攻めを仕掛けた「備中高松城の戦い」の舞台となったお城の跡もあります。そして大昔、日本という国が形作られつつあった頃、すなわち大和政権が国土防衛のために築いたとされる神籠石式山城(こうごいししきやましろ)「鬼が城」は謎のお城・・・などなどたくさんのお城があります。

しかし、岡山を代表するのは何といっても岡山市にある通称烏城(うじょう)こと岡山城でしょうか。烏城は、少し東に位置する播磨国飾磨郡の真白な姫路城が白鷺城(しらさぎじょう)と呼ばれているのに対して、外観は天守閣を覆う黒い下見板張りのために黒く見えることから烏(う)=カラス 城とよばれています。このお城の歴史は戦国時代そのものですが、最終的には、豊臣秀吉の家臣で美作から備中東部つまり岡山県の大半を支配した宇喜多直家(1529‐1581~2?)と、その子秀家(1572‐1655)が原型を作った後、関ヶ原の戦を経て、小早川氏、池田氏が受け継ぎ本格的に整備されてたものだそうです。

岡山城=烏城の入り口と城壁の巨大な石

2025年3月14日、「日本財団在宅看護センター」起業家育成事業第一期(2014)研修を終え、2015年3月に岡山市北区で「合同会社岡山在宅看護センター晴、訪問看護ステーション晴」を開業された赤瀬佳代氏が、その烏城で開業10周年パーティ、いえいえ、城の中の宴を催されました。

ホントに、ホントにお城で宴会やるの?と私は半信半疑で岡山に向かいました。

夕方、西の彼方に日が沈む頃、一般の観光客が退出しつつある天守閣に、三々五々、宴に招かれた人々が吸い込まれてゆきます。

4重6階の複合式望楼型天守に登れば、四方岡山の街が眺められます。穏やかな晩春の夕べ、城は夕闇の中で静かに豪奢に存在しています。天守の西側のかなたには、山の端に沈みつつある太陽のおだやかな残照がありました。

お城で開業十周年のパーティ!
天守を飾る金の鯱がなんだか嬉しそうに見えました。

厳めしい甲冑や雅な駕籠が展示されているフロアもありましたが、詳しく書かれている戦国の経過は、その昔、この地が紛争にまみれていたことを物語ってもいます。ふと、ガザそしてウクライナを思いました。

さて、宴の参加者は訪問看護ステーション「晴」のスタッフとそのご家族、会計をみて下さっている事務所の方々と責任者赤瀬佳代氏を支えて下さっている2、3の現地の看護関係者と私、本当に内輪の集まりでした。

宴の場はF1、天守閣の建物の2階部分ですが、ぐるりと建物を一周できる構造で一番広いところがメインの場、挨拶や感謝の花束贈呈、余興のマジックが行われました。参加者のほとんどはお顔見知りだったことによるのでしょうが、どのテーブルも超にぎやか。

男女比は、やや女性優位と見受けましたが、1歳から92歳までの参加者、大人が6、70人でしょうか、小中学生らも20人弱は参加していたようで、マジックショーに駆り出されていました。時折、あちこちで上がる嬌声は食べ物か飲物をめぐる合戦だったでしょうか?

お顔見知りの十数名の「晴」を支えるベテラン看護師ドノたちも、この一夕はリラックスされているようでしたが、十年ひと昔・・・もうそんなになるのですね・・・!と感無量でした。

挨拶する「晴」代表社員 赤瀬佳代氏とスタッフら

なごやかでにぎやかで、そして美味しかった烏城の宴を終えて出てきたお城、ライトアップの満月に輝いていました。

赤瀬さん おめでとう。
赤瀬佳代率いる「晴」のますますのご発展、「晴」を支えるスタッフとそのご家族のご健勝を切に祈ります。

宴の後・・・烏城の前で、赤瀬氏と喜多