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来年前期のNHK朝ドラは訪問看護の先達が主人公

2026年前期のNHK朝ドラは、明治時代に訪問看護の道を開拓された大関和(オオゼキ チカ、歴史上の人物なので敬称は略)のお話だそうです。「日本財団在宅看護センターネットワーク」の仲間からその話題を耳にした後、たまたま立寄った書店でその元になる原著を購入しました。

明治のナイチンゲール 大関和<ちか>物語』(中央公論新社)です。
帯には、「職業看護婦(トレインド・ナース)の道を切り拓いた大関和〈ちか〉と鈴木雅〈まさ〉、2人の女性を描く」とあります。このお二人の名前は、日本の近代看護の萌芽時でもあり、日本が近代化に猛進?する時期の歴史の中でどこかで遭遇する可能性もあります。私自身、以前、日本の看護教育の歴史を調べていた時、同じくNHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公新島八重と前後してお名前をみた記憶がありました。

大関「和」の和を「ちか」と読む読み方です。mojinabiによりますと、『和』の字には少なくとも、「和(わ)」、「和(か)」、「和(お)」、「(和)やわらげる」、「(和)やわらぐ」、「(和」なごやか」、「(和)なごむ」、「(和)なぐ」、「(和)あえる」の9種の読み方が存在するとあり、また、日和(ひより)とか、和肌(にきはだ)にも行き着きましたが「チカ」は出てきません。何かいわれがあるのでしょうか。

さて、近代看護の礎〈いしずえ〉を作ったイギリス上流階級の令嬢フローレンス・ナイチンゲールについては良く知られていますが、ナイチンゲール家は貴族ではなく、それ準じるジェントル(土地や先祖からの財産で暮らせるお金持ち層、教養が必要!)層でした。フローレンスは1820年5月10日生まれで5月10日が看護の日です。

そしてクリミア戦争(1853~56年)、クリミアは現在のウクライナでも注目を浴びていますが、黒海に突出した半島です。ヨーロッパの中世末期、南方進出を目指すロシア帝国は衰退しつつあったオスマントルコを攻撃しますが、それをナポレオンⅢ世のフランス、ヴィクトリア女王の大英帝国とイタリアの小国サルディニア公国が応援しますが、その主戦場がクリミア半島あたり、そしてナイチンゲールの令名高くしたのがこの戦争です。たまたま世界初の戦場報道が行われたことで、イギリス軍の現地病院の悲惨な状況が本国イギリスで報じられました。それを知ったナイチンゲールは今風に申せばボランティア的に現地に行こうとしましたが、たまたま親しい知人の戦争大臣が公式にも派遣要請したことで正々堂々と38名の看護師たちが現地入りしました。が、最初、戦場は女の出る幕じゃない!!とする旧態依然、頑固蒙昧な将軍たちに阻まれます。しかし、押し寄せる外傷や感染症の将兵の世話ができなくなった時点でナイチンゲール一行の活動が始まります。

Google Mapより

結果としてナイチンゲール指揮下の看護・・・病院における環境整備と傷病者支援・・・の効果が歴然となりました。当時、きちんとした看護学はなく、看護師という職業は全く評価されていなかったなかで、看護チームの活動が医師という権威!を凌駕するほどの成果を上げました。帰国後、世界的にも偉大な君主であったヴィクトリア女王の拝謁を許されるほどでしたが、ナイチンゲール個人だけでなく、それまで卑賎な仕事とされ、オンナが奉仕的にすればよいンだ!とされてきた「ケア」の専門性と意義が認識されたと申せます。

明治とは1868年から1912年までの45年。それ以前の日本は鎖国でした。ナイチンゲールは和暦でみると文政3(1820)年生まれ、3年後の1823年には日本に近代医学をもたらしたドイツ人シーボルトが、長崎のオランダ商館のスタッフとして来日しています。クリミア戦争当時の日本は幕末ですが、ナイチンゲールは、ほぼ明治時代を通じて活躍し、明治最後の2年前1910年に亡くなっています。

大関和(ちか)も、上流階級の出です。すなわち下野国黒羽藩(しもつけのくにくろばねはん 現在の栃木県太田原に藩庁を置いた那須7藩のひとつ)の家老の娘です。明治維新で藩主が自刃(自殺)、父も家老職を辞職し一家で東京に移住します。19歳の時、1876(明治9)年に旧黒羽藩次席家老だった渡辺家の次男と結婚し、黒羽に戻ります。2児をもうけますが、旧態依然の夫とは上手く行かず、親権を得て(これがこの頃の女性としてはスゴイ!)離婚し東京の実家に帰ります。

東京では、没落した旗本の出で、近代化を目指すわが国のキリスト教界の重鎮となる植村正久の率いる英語学校(正美英学塾)に学びました。後にその教会で洗礼を受けていますが、「女性の人格を認め一夫一婦の道徳を説く」キリスト教にも強く感化され、その影響もあって病める人を助ける看護に進んだとされています。1886(明治19)年には、ナイチンゲールの看護教育に啓発され、日本でもプロフェッショナルな看護師養成が必要と来日したリディア・ベントンの後を継いだ宣教師によって設立された桜井女学校付属看護婦養成所の第1期生となります。この看護婦養成所こそが日本の専門的看護教育の魁(さきがけ)でしょうか。和(ちか)は明治21(1888)年に看護師資格を得ています。しかしこの頃には国の認可制度はなかったのでしょう。現在、看護系資格や制度は複雑すぎるほどたくさんありますが、いずれも看護協会の認可であり、それが故に、真の看護の適正かつ効果的な自立が遅れてきたように、私は思えます、スミマセン。

いずれにせよ、大関和(ちか)は看護師資格取得後、直ちに帝国大学(現東大)付属病院外科看護婦取締(婦長)となり、2年間勤務しましたが、「献身的」看護で患者たちの絶大な信頼を得たとあります。看護は、通常、頑強かつピチピチの健康にあふれる若者を相手にするのではなく、どちらかと云えば、心身に弱ったところがある人を対象としますが、その仕事ぶりを評価するに際して、よく「献身的」という言葉が出ます。してもらう方はよろしいが、看護師も生身の人間、常に献身的であらねばならないのはちょっと厳しすぎるというか、他の仕事とはあまりにも異なる資質?機能?を求められすぎるような気がします。

昨今、カスタマーハラスメント(端的に云えば、利用者からの嫌がらせ)が激増しているもの、看護・ケアを職業とする人々に過剰の「献身さ」を要求しすぎているような気がします。必要な看護が粛々と科学的に適正に実践され、それをクライアント(利用者)が適正に受ける・・・そんな関係であって欲しいと、私は思っています。

和(ちか)が看護師になったのは、きちんとした適正な看護で病める人を救いたいと思ったからでしょう。当時の看護師は「命を扱って金もうけする卑しい人間」、「医師に従属するもの」として扱われていたと記載されていますが、現在はどうでしょうか?

和(ちか)は、今でいう訪問看護/在宅看護を中心に活動しましたが、訪問先は主に明治を切り拓いた重鎮やお金持ちの華族ではありました。一方で、献金寄附を頼んで、貧しい人々への慈善訪問も行っています。その辺り、保険制度の無かった時代ですね・・・しかしこの方、勤務条件の基準化の必要性、看護師の資質向上と労働条件改善を求めて建議書を提出したりもしています。もちろんというには憚られますが、当然、受理されていません。落胆した和(ちか)は、東京を去って新潟に移りますが、ここでも女性教育を開拓しています。

さらに、和(ちか)は娼婦(セックスワーカー)廃止も訴えています。斯く斯様に、人権擁護にまい進したことも含め、人間は平等であること、差別偏見は排除すべきもの、弱い者・助けを必要とする人には手を差し伸べようという極めて人道的信念からだったと、私は思っています。

和(ちか)の同志ともいえる鈴木雅(まさ)とともに、二人は日本のジェンダー分野を開拓されたともいえます。早くも明治時代に、このような先達を持ちながら、2025年の日本のジェンダー指数(世界経済フォーラム Global Gender Gap Index 経済参加・教育・健康・政治参加4分野の男女格差の測定。範囲は0〜1、1は完全男女平等)は、スコアが0.63程度、世界順位は146か国中116位とは情けないです・・・あなた方は何をしているのか!とあの世でお怒りかもしれませんね。

二人の活動時期は近代日本の黎明期、どんな朝ドラになるでしょうか?
朝ドラ時間帯は既に勤務時間で継続して観たことはないのですが、来年は勤務を調整して拝見しようと思っています。

なお、この興味深い本の著者田中ひかる氏は『看護教育』66巻 3月号(2025年6月25日発行)の巻頭インタビュー「2026年朝ドラ『風、薫る』原案者が語る看護師という職業の誕生ヒストリー」でお話されています。そちらも興味深いです。

NHKドラマ情報より

訂正
戦後80年のヒロシマ(2025年8月7日)ブログの、「戦場にジャーナリストが入った最初はクリミア戦争時のナイチンゲールを報道したアメリカ人記者とされていますが、」の「アメリカ人記者」は「アイルランド人記者」の間違いです。訂正してお詫びいたします。