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関門海峡――三つの戦いから学ぶこと

「日本財団在宅看護センター」ネットワークでは、4月25日、山口県下関市で在宅看護センター ヴィータ(株式会社T-フォース)を運営してきた井上滝子さんが、ネットワークで10番目の看護小規模多機能型居宅介護事業所「アリア」を開所されました。1か月前、3月下旬には宮崎県日南市で野﨑仁美さんが、その名もぴったりの看多機「のざきん棲(ち)」をオープンされたのに続きます。その間には東京都文京区本郷を拠点とする直江礼子さんの「在宅看護センター本郷」がスタッフご一同のご家族を招いての開業10周年を祝われました。嬉しいことが続いています。

で、今回は下関関連のいくさです。
下関と聞いて何を思いますか?美味しいふぐ料理、かまぼこ・・・と食い意地が張っていますが、関門海峡を挟んで九州と対峙する山口県下関はその昔の長州藩です。私たち保健医療にたずさわる者はしばしば長崎をわが国の近代医学の発祥の地と呼びます。その伝で申せば、長州は近代日本発祥の地ではないかと私は思います。何といっても吉田松陰(1830.9.20‐1859.11.21)、高杉晋作(1839.9.27‐1867.5.17)そして坂本龍馬(1836.1.3‐1867.12.10)も「長州に帰る」というほど、この地が好きだったからです。

海峡に近いホテルに泊まりました。朝食の際、本州西端と九州を隔てるこの細い関門海峡を行き交うさまざまな大きさと形の船が眺められました。

関門海峡周辺地図

海峡は静か、大小さまざまない船が行き交っていました。三つのいくさが思い返されました。12世紀の壇ノ浦の戦い、16世紀の巌流島の戦い、そして近代への扉をこじ開けた19世紀の馬関戦争(下関戦争)、それらは歴史のかなたにあるからでしょうが、現在の世界で繰り広げられている戦争に比べると何だか優雅に思えました。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。」・・・平家物語の導入部・・・古文で習いました。その平家が源氏に滅ぼされた壇の浦は関門海峡の一部です。時は1185年、源氏と平氏が激突しました。この海峡は潮流が激しいことで有名です。船いくさの初めは優勢だった平氏は潮の流れが変わり裏切りも重なって形勢逆転します。平家の総帥(そうすい)平清盛の孫にあたられる幼い安徳天皇は母方の祖母二位尼(平時子)に抱かれて入水(じゅすい。覚悟をもって水に入ること・・自殺!プールに入るのは「にゅうすい」)し、栄華を極めた平家は滅亡しました。源氏の勝利はその後の「武士の時代」の到来でもありました。昔、琵琶を奏でながらの平家物語を聴きました。ベンベンベン・・・ちょっと涙がでました。

それから400年後の巌流島の戦いは、同じ関門海峡の小島での宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘です。二人ですから戦争ではありません。宮本武蔵は実在が良く知られている剣豪、現岡山県美作市出身、同市を走る智頭急行智頭線に無人の「宮本武蔵」駅があります。小次郎の実像はあまりよく知られていない・・・現福岡県田川市の出身と聞いたことがあります。ただ二人が当時船島(または舟島)で対決したことは事実らしく、決闘時間に2時間も遅れた武蔵がイラついていただろう小次郎を船の櫂(かい)を削って作った長い木刀の一打でやっつけたとか、弟子の応援団がいたとか・・・少し長い刀で「燕返し」を得意とする小次郎はあっけなくやられた・・・昔、三船敏郎が武蔵を演じた白黒映画をみました。思うに武蔵の「心理戦」の効果、剣豪武蔵は軍師でもありました。

宮本武蔵・佐々木小次郎両雄の像(彦島地区まちづくり協議会HPより)

関門海峡をめぐる最大の戦争は明治維新の前、攘夷派(幕末、天皇を尊ぶ「尊王」と外国勢力を武力排斥したい「攘夷」を掲げた政治勢力。長州藩はその中心)長州が当時の先進世界と対峙した馬関戦争(1863‐64、下関戦争)です。馬関は下関の別名、本来は赤馬関・・馬関・・ばかん・・です。

強硬な攘夷派長州は怖いもの知らず、外敵を撃て!と海峡を往来する外国船を砲撃しました。対する英・仏・蘭・米4か国連合艦隊がバカンバカンと一大報復攻撃、これが馬関戦争です。圧倒的戦力差から長州はあっけなく敗北します。が、本当の「馬関戦争」とはその戦後処理にあるような気がします。その主役が吉田松陰第一の弟子高杉晋作です。

下関戦争で連合国によって占拠された長府の前田砲台(左写真Wikipediaより)

交渉の場に現れたのは宍戸刑馬と変名を使う若き高杉晋作。当時の晋作は色々な政治的事態に首を突っ込み、あるいは口を出し過ぎ、あちこちから命を狙われ、いくつも変名をつかっています。この時24歳、いかようにも若造でした。一方、勝利した4か国連合軍の交渉責任者は当時のイギリス東洋艦隊司令官オーガスタス・レオポルド・キューパー(Augustus Leopold Kuper 1809.8.16‐1885.10.28、後にサー、イギリス王立海軍提督。薩英戦争や清とのアヘン戦争でも指揮)、既に50歳を超え最前線経験の豊かな軍人でした。まぁ、一見子どもにも見えた長州代表に驚いたのです。「なぜ、このような若者が交渉に出るのか!」といったとか。しかし交渉が始まると雰囲気は変わりました。晋作は物怖じせず論理的応答に終始、この時の通訳がアーネスト・サトウです。尊王攘夷派の総帥みたいな晋作はぬらりくらり、しかし外国勢が納得する交渉を行い日本は大きな敗北を避けられたそうです。

その駆け引きのひとつが彦島です。彦島は以前も取り上げました。(「関門海峡と「彦島」」2022年7月27日
彦島は関門海峡の一端、下関市南端の陸繋島(りく続きの島)で本州最南西端部です。かつて大瀬戸小瀬戸の間にあったのですが小瀬戸の一部が埋め立てられ、昭和12(1937)年以降は陸繋島です。現在人口2万1千強、著しい高齢化は多くの地方と共通です。戦争やいくさ、さらに敗者には諸々伝承があります。

下関地図(Wikipediaより)

会議通訳だった後の総理大臣伊藤博文の回想記には英国の彦島租借要求を晋作が拒否し通したとあるそうですが、会議の俎上に彦島を載せなかったのは、晋作ら日本側交渉団のしたたかな対処力だったとも云われています。晋作は、日本の主体である江戸幕府が最終責任者で長州藩は現場対応役だとし、外国側が目指す自由で安全な海峡通航と戦争賠償金(これも払うのは幕府!)と再発防止策だけに交渉を集約したとされています。が、大英帝国のこと、もし彦島が中国の九龍半島北部(香港など)や山東半島のような租借地になっていたら、その後の日本の歴史はどうなっていたかと思います。歴史の「もし」は禁句ですが。

晋作は後のイギリス交渉団の記録にも勇気と理解力があり、きちんと交渉できる人物と記録されているとか、考えるまでもなく、江戸時代末期の日本は初経験の巨大軍事力をもつ外国政府の日本介入意欲?に苦慮していますが、折々、きちんと交渉できる人材が存在したことで当時の先進諸国の植民地化を防げたのですね。

銃をもたずに日本の危機を救った晋作は、間もなく、結核をこじらせわずか27歳8か月で世を去りました。師吉田松陰は29歳で刑死、坂本龍馬は31歳で暗殺されました。これも歴史的「もし」ですがこの3人がせめて2、30年永い生を持っていたら日本はどうなっていたでしょうか。

晋作は末期に「おもしろきこともなき世におもしろく」(「に」ではなく「を」との説あり)と詠み、晋作を看病していた野村望東尼(もとに)が「すみなすものは心なりけり」との下の句をつけたと云われています。日本歴史を振り返って、最も面白い時代を面白く駆け抜けた晋作がその時代を面白いことがなかった!ということに私はある種の感動を覚えます。

下関、長州は近代日本が生まれたところ・・・興味深い志士たちの活動を思いながら関門海峡を行き交う船の写真をとりました。そして、壇ノ浦の源平合戦は自然(の潮流)がいくさの流れを左右し、巌流島の決闘は個人の戦略が鍵となり、馬関戦争では、真の武力破壊力もさることながら、外交交渉の重要性が認識されたのだなと思い返しました。