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オウ・ジンジャオ(中国)

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オウさんは、1942年生まれである。父、母、弟との4人暮らしであった。しかし、オウさんが6歳の時、父がハンセン病であることが分かった。それから厳しい生活が始まる。
ハンセン病と知った祖母は、オウさんを父から離したほうがよいと考えた。
本病は、大昔からあった病気だ。以前は、親から子どもに伝染することが多いことから遺伝病と考えられていた。実際は、成長と共に免疫機能が完成するため、15歳くらいになると、ライ菌に対する免疫力を獲得し、本病にはほとんどかからなくなる。しかしながら、免疫が未熟な乳幼児がかかりやすいことから、遺伝病と誤解されたのである。
そのため、当時3歳だった弟は、すでに父から感染している危険があるとの判断だったのだろう。父と共に行くことになったのだ。
「こんなに幼い子を抱えて、一体どのように生きていったらいいのか…。」母は仕方なく香港に働きに行くことになった。香港といえば、当時イギリスの植民地。中国より貨幣価値が高い。そのため、やむなく母と離れざるを得なかった。そこでオウさんは、祖母に預けられた。
ハンセン病にかかった痛手と家族と離れ離れになったショックとが重なったのだろう。父は精神的におかしくなってしまった。祖母のところに何度も訪ねてきて母を探した。祖母はほうきなどを使って父を打った。それでも父は何度も来る。周りの人間が縄を使って父をしばることもあった。そのたびに父は精神を病んでいった。
ある日、「母や息子(オウさん)を探してあげるから金を出せ」といって父をだました人がいた。精神を病んだ父はもちろんお金などない。そこで、父の弟に金を借りた。しかしそれ以降、父は蒸発してしまったのだ。最も不幸だったのは3歳下の弟。幼くして母と別れたにも関わらず、父は精神を病んで面倒など見てくれない。見かねた父方の祖母に弟は引き取られた。
このようにして、オウさんの家庭は、父は行方不明、母は香港で出稼ぎ、オウさんは母方の祖母、弟は父方の祖母と、家族が散り散りになってしまったのだ。
1950年、オウさんが8歳の時、母から手紙がきた。一緒に香港で暮らさないかという誘いだった。祖母がオウさんを連れて香港に行った。しかし、まだまだ幼かったため、中国に帰りたいといって泣いた。母は1、2年したらまた香港に連れてきてもらおうと思ったようだ。
母のほうからオウさんに会いに来たことも2回あった。母にとってはオウさんが唯一の子どもとの思いがあった。父と一緒に行った弟はハンセン病になって将来がないと信じ込んでいたのだ。母はどれほどの孤独であっただろうか。母にとって、オウさんが”唯一の宝物”だっただろう。
1949年、新しい中国、中華人民共和国が成立した。世の中が180度一変した。今まで金持ちだった人が、一晩にして貧乏になった。その政治状況を反映して、中国から香港へ移住する人が増えた。そのため、新しい中国成立後、2、3年で、中国から香港へいくことが禁止された。母と子の交信もできなくなってしまった。
中国に帰ったオウさんは、牛の世話をする仕事を手伝った。

発病

複雑な家庭状況もあって学校に行くことができなかったオウさんも、9歳になって、やっと小学校に行くことになった。しかし、オウさんの家庭状況を周りの誰もが知っていた。
母方の祖母の姓は”潘”、オウさんの姓は”オウ”ということもあって、「ハンセン病者の子どもとなんて一緒に遊ばないよ!」といじめられた。学校には行きたくない。祖母は学校に行けという。家族がバラバラである上、自分は病気でないのにいじめられる。そのつらさを幼いころから味わったのだ。
その後、オウさんは、わけあって父方の祖母の下に引き取られた。やっと弟との再会。ハンセン病にかかったと勝手な判断をされ、父にも捨てられた弟は、やっと孤独からの脱出だ。オウさんと弟は、共に小学1年生として出発した。
しかし、間もなくしてオウさんのほっぺたに皮疹ができた。中国では、ハンセン病の診断は、村の中で知恵をいっぱい持っている人に判断された。病院に行って確定したのではないが、ハンセン病の父の子どもだから本病であろうとの判断だった。中国といえば漢方の本場である。効くといって服用した中葯はとても苦く、塗る中葯はとても見栄えが悪く、それを顔に塗ると外出することができなかった。
父がハンセン病であることを知っていたから、この病気のことが分かる。恐ろしくて恐ろしくて…。薬をぬっていない時には外出できるが、薬をぬっている時は何日も学校に行かない日が続いた。
9歳から10歳までは学校に行ったが、そんなこんなで本当に勉強したのは3年間くらいだったという。
さてさて、香港に出稼ぎに行っているお母さんはどうなったのだろう。祖母は手紙を書いた。「(オウさんが)ハンセン病かもしれないので、香港の薬を探してください。」と。しかし、返事はこない。オウさんは失望した。母の義姉の情報では、母は香港で再婚したという。街で会った時も、少しあいさつだけして逃げるように姿を消した。「今は幸せに暮らしているからそっとしておいてほしい」とでもいうのだろうか…。
手紙を出してから2年…、やっと母から返事がきた。母と知らない男の人が親しい様子で写っている写真が同封されていた。それを見たオウさんはどのような心境だっただろう。香港で一緒に暮らそうと呼んでくれた母はもういなかった。両親との縁は、そこでぷっつりと途絶えてしまったのだった。

ハンセン病の療養施設への抵抗

1956年、オウさんが15歳の時、清遠にハンセン病の療養施設ができるといううわさが広がった。そこに行ったら殺されるかもしれないといううわさ。
清遠市のすべてのハンセン病患者が集められた。恐ろしくて恐ろしくて、自分に選択権があれば絶対にこの村には行きたくないと思った。しかし…。行政隔離だったため、選択する権利さえなかった。
村にいる少し医療知識を持った人がハンセン病か否かの判断をする検査に来たと聞いたら、恐ろしくて家を飛び出し、夜暗くなってから家に戻ったこともあった。
殺されるといううわさとは裏腹に、政府は、「村に行ったら8カ月で治して家に帰れますよ」と甘い言葉で患者を誘った。もちろんそんな言葉はうそで、一度入ったら”隔離”だ。
政府は、隔離のためにさまざまな手を使った。まずはうその言葉で誘い、それがだめなら、患者の家族にいろいろな言葉で説明する。それでもだめなら行政隔離だ。罪人のように銃で威嚇してヤンケン医院に送り込んだ。
例えば結婚しているが妻と死別し、子どもがいる場合はどうするか。たとえそのような場合でも子どもと一緒に入ることは許されなかった。違反して逃げ出したら食事はできない。規則に違反したら牢屋に入れられる。その上、罪人に罰を与えるため、足かせをはめられ、手錠までかけられた。しかし、家族のため、罰を受けても外へ行こうとする人もいた。罰を受けても、毎日毎日外に行く人もいた。

ひどい現状

開院当時、未開の地であったため、入所時は半年から1年の食べ物を持って入らなければならない。
自分の食事にありつくには、自分が働くしかなかった。自給自足が原則で、自分が労働しなければ食べることはできなかった。
外界に買い物に行く時は、ハンセン病の症状が軽い人が役割分担をして外出する。医療員たちがそれを監視する。市場についたら、ひとつの部屋に押し込まれ、医療員が買い物をし、重い荷物は患者が村まで背負って帰った。2年後には、医療員も長距離を一緒に歩くのは疲れるし、患者を押し込める部屋もなくなったため、患者だけで買い物に行くようになった。
その当時、履物はない。たとえあったとしても、捨ててあるものを拾ってきて針金で補修して履くといったものだ。その上、本病は末梢神経を冒すため感覚もない。たとえ釘を踏んで長距離を歩いても気がつかない。その距離なんと14キロ。道なき道を1週間に1度の買い出し…。出発は一緒でも、身体が不自由な人は、丈夫な人が帰ってかなり時間がたってからやっと村にたどりついた。
ある人は、途中で休憩し、夜になっても帰ってこない。探しに行くと死んでいたということもあった。
当時、いろいろなグループに分かれていた。労働をするグループ、買い物をするグループといった具合だ。
夜でも油灯を燃やして働いた。仕事を一生懸命してもいつもお腹がすいている。体も弱いし効率は普通の人間よりも低い。しかし、食べるためには働かなければならない。身体が丈夫な人は、たくさん働くのでもっとお腹がすく。しかし、一生懸命働いてもそれに見合ったごはんが食べられるわけではない。

閉ざされた異常な世界

そのような状況にあっては、いろいろとおかしいことも出てくる。
例えば”盗み”だ。盗みといっても、盗むのは畑にある野菜。そして、作っているのは紛れもなく自分たちだ。制度を作り、命令しかしない医療員が罰する。”遊刑”という刑が課せられた。例えばきゅうりを泥棒し、それが見つかったら、1日中鐘を打ちながら「私はきゅうりを盗みました~。」と自分で言ってまわるのだ。1日中まわり終わってもごはんは食べさせてもらえない。
盗みなどしなくても、グループのリーダーが「~は今日は食事はない」と言うと食事はできない。そういう世界だった。
オウさんが20歳くらいの時、彼のような若者が30人くらいはいた。若者には当然の感情というものがある。”恋愛感情”だ。しかしながら、医院の制度では、恋愛関係は絶対禁止。見つかった場合には、正常では考えられない対応をされた。
恋愛関係が発覚すると、会議を開かれ、みなの前で自分がやったことをすべて詳しく話さなければならない。その関係は自由意志かと言われ、さらに詳しく聞かれる。すべて話し終わっても、それだけではすまない。「まだ何か言っていないことがあるだろう」と、暴力を加えた。まるで人がボールのように扱われ、血を吐いても暴力が繰り返される。男が男を批判し、女は女が批判した。
そのような暴力を受け、次の朝、空が暗いうちに村を出た若者が、鉄道の側の松の木で首をくくって自殺したこともあった。男女そろって自殺したこともあった。
恋愛感情は、自然なもの。その当たり前のことで悲劇は繰り返される。このような異常な世界は、ハンセン病患者が、まさに人間以下として扱われたことを物語っているように思える。
オウさん自身は、それを見て怖くて怖くて、好きな女性ができてもモーションをかけることもできなかった。たとえ女性から声をかけてくれても、恐怖で断ることしかできなかったという。

性格により救われた

「罰が怖くてたまらない」という思いから、オウさんは何も違反したことがなかった。その上若く、頭がよい。それらが幸いして短い期間で次々とよいグループに移動することができた。
最初は”生産グループ”といって、食糧を作るグループだった。野菜や穀物はもちろんのこと、家畜を飼うのも生産グループに含まれる。オウさんは、2年間牛の世話をする仕事をやった。
その後”副業グループ”へ。ここでは、建物を建てたり、椅子を作る。木を切って同じ形に整え、中山やマカオで売るための木材を作る仕事もあった。
そして、次は”食事を作るグループ”へ。
ついには、”護理”という仕事をするようになった。病院の薬の管理や調合、病人の看護や注射をする仕事。顕微鏡で白血球や赤血球といった血液成分の研究までやったという。
幸せなことに、その期間、素晴らしい人と出会うことができた。元小学校の校長だった人だ。10年前肝炎で亡くなったが、彼と一緒に仕事をした1960年から66年の6年間はオウさんにとって大変貴重な経験をすることができた。

新しい人生の再出発

さて、1966年5月18日、出院した。ハンセン病が治ったのだ。24歳の青年。これからまだまだやり直しのきく年齢だ。しかしながら、それを阻んだのは、文化大革命だった。
文化大革命とは、劉少奇・鄧小平などの「実権派」と呼ばれる人々を一掃するために、毛沢東が1966年に発動したものだ。食糧の大増産と工業化を一気に進めてしまおうという「大躍進政策」。例えばみなに鉄を大量生産させたりといった政策だ。しかし、実際は、鉄は実際に用いることができないくず鉄を大量に生み出し、鉄の生産にあけくれたこことで食糧が不足し、自然災害なども加えて、2,000万人もの餓死者を出す悲惨なものだった。
そのような混乱した世界では、ヤンケン村での生活とまったく変わりなかった。生産をせず、善人も悪人も批判ばかりしている世の中では、ハンセン病回復者に対する精神的圧力も強かった。もちろん身体の栄養なども足りていない。
ハンセン病は「栄養不足や、戦争などのストレス状態」で発病しやすい。本病再発率は6から8%とオウさんは言う。当時はそうだったのかもしれない。WHO(世界保健機関)の最近の統計によると、多菌型であっても2%以下の再発率だと報告されている。
オウさんは、このようなまれにしかない条件にあてはまり、不運にも”再発”してしまったのだった。

ヤンケン医院、再び…

皮膚科のハンセン病防治院に行ったが文化大革命だから医師がいない。
1970年、文化大革命の一番ひどい時期にヤンケン医院へと戻った。しかし、外界と同じように、ヤンケンでの暮らしも以前より苦しくなっていた。薬も医師も少なくなっていた。
本病治療薬として使われていたDDSは再発した時には使えない。そのため、酒石酸塩の入った”吐糖”という薬を治療に用いる。しかし、この薬は副作用が大変強かった。刺激性から、注射すると心拍数が上がり耐えられないこともある。使いすぎると身体に支障が出る。この薬を使ったことで、今まで外見的に健康な人と変わらなかった手が腐りだした。どんどん悪くなっていく周りの患者を見て、心労も重なり、オウさんの病状もだんだん悪くなっていった。手足が腐ったら治らない。麻痺もひどくなってくる。その上重労働でますます悪くなる。永遠に残る後遺症はこの期間に作られたのだった。
しかし、しばらくすると、オウさんはリーダー的役割を担うようになった。以前の”護理”での働きを医療員が評価したのだろう。それが幸いして、治安主任、財務、食堂管理といった重要な仕事を任せてもらえたのだ。オウさんのリーダー的人格が、後遺症の進行に歯止めをかけてくれた。

虫けらのような扱い

文化大革命の期間、ヤンケンでもかなり冷酷な政策が行われた。1972年「治療標準に達した人はヤンケンから外界に出てください」というのだ。外に出ても、故郷を追われてきた人ばかりだ。帰る家さえない。後遺症がひどかろうがそんなことは関係ない。荒れた世の中で一体どのように生きてゆけというのか…。
しかし、政策は容赦なかった。例えば後遺症がひどく「絶対に出たくない」と言った男性がいた。管理者は、「(ここから)出なくてもいいけれどごはんは食べさせない」という。そのようなひどい仕打ちをされた彼は、ある時姿を消した。何人かは山を探したが見つからない。
しばらくたって、犬が骨をくわえてきた。「人間の骨ではないか…。」それから3、4カ月たって、竹を取りに行った村人が、彼の靴と骨を見つけたという残酷な実話もある。
また他の人は、故郷に帰ったが、自分たちの息子や娘が結婚する時に、ハンセン病の父親がいると結婚できないと責められ、差別され、接してもらうこともできず、自殺へと追い込まれた。
明らかな後遺症がある人ばかりが差別されるのではなかった。片手が少し悪いだけで、健康な人とまったく変わらない青年も、女性をからかったといううそのうわさをたてられ、会議にかけられた人もいた。彼がいくら弁解しても誰も信じてくれない。棒などを使って殴られ、死んでしまった…。
女性関係に関しては、本当に厳しかった。たとえ奥さんであっても、けんかなどしようものなら、”元ハンセン病患者”を理由に差別される。後遺症があるなしにかかわらず”元ハンセン病患者”というだけで、差別には十分なのだ。その上、「ハンセン病者が女性に触れたら病気がうつる」などといったなんの根拠もないうそが”常識”であった時代…。
世の中が荒れた文化大革命の時代。その時代の中でも一番”底辺”で踏みつけられ尊い命が虫けらのように散っていったのだ。
オウさんは、当時を振り返り、「外の世界に出ても生活することすら許してもらえない。沈みたくないけれど、船のように沈むしかなかった」と言う。

1970年代

ヤンケン村は、72年に120人もの重要な労働力を失った。それまで3つあった生産グループがひとつのグループへと統一された。しかしながら、その年政府の政策も変わり、生活レベルは上昇することになる。
ある村Aで粟を作っているとする。A村は生産した粟の一部を政府に献上する。それは”公共の糧食”と言う。一方、ヤンケンは村で作ったサトウキビを売って稼いだ”お金”を政府に献上する。すると、A村にある”公共の糧食”を、ヤンケンの人は受け取ることができる。”公共の糧食”という献上物の代わりに”お金”を受け取るという政府にとってうまい政策だ。もちろんヤンケンの人は本病の後遺症で、A村まで受け取りに行くのは大変だったにせよ、食糧という点では以前より楽な生活が送れるようになった。1人につき50斤の粟が受け取れるようになったのだ。
政府にお金を献上しても余るお金はどうするのか。それに関しては、”工分”(工作分点)という制度で配分された。この制度は、1957年からの制度だが、72年からは、各個人の労働に”単位”をつけ、その単位によって”お金”が割り当てられた。身体の丈夫な人はたくさん労働し、単位を稼ぐ。多い人で年に6.70元(約1,000円)のお金を受け取ることができた。初めて自分のお金を持てるようになったのだ。自分のお金を持ったら外で買い物をしたい。自然な感情だ。しかし、患者に自由にされては困ると思った防治所は新たな政策を作った。1978年から84年まで行われた”代用券”という制度だ。「ハンセン病がうつるから普通のお金を使わないほうがよい」「患者は外に出たら差別されるから、買いたいものを書いて医療員が買いに行ってあげる」という名目。しかし、紛れもなく、患者を村に閉じ込め、自分たちだけ外の空気を吸おうというたくらみだ。患者が、手足を犠牲に作った”新しい道”を通って…。
日本でも、ハンセン病療養所では”園内通貨”という療養所内だけで使えるお金を発行し、逃亡を防いだ。遠く離れた中国の地でも、同じような政策が行われていたとは。
「どうして自分たちには自由がないのか?」時代が変わっても、その疑問への答えは見つからなかった。
本当に触れただけで病気がうつると思っていたのだろうか。管理者は決してそのようなことはないと気が付いていたはずだ。しかしながら、お金は持たせてもらえない。外からきた手紙も、自分たちが送る手紙も消毒された。消毒によって手紙の内容が読めないこともあった。

1980年代

さて、1980年代に入ると、”グループ制度”がなくなった。以前はグループとして土地を耕作していたが、”個人”が畑などを請け負うようになった。生産の中から一定の量を政府に献上し、残りは自分の取り分となる。
自分が請け負った土地を仲間同士で助け合って生産する。そのような生活様式になった。オウさんは、今でも大の仲良しである食堂のおばさんとその仕事を始めた。
また、以前の”工分”の制度は、1984年に”等級”という制度に変わった。ハンセン病の障がいの程度によって等級を分け、政府からもらったお金は、”等級”に従って分配するという制度だ。代用券の制度も84年に廃止され、”本当のお金”で受け取ることができるようになった。
しかし、その等級の程度が平等ではない。基準があるわけではなく、管理者が決めるのだ。管理者に取り入る者もいる。管理者が気に入った者には多くのお金を分配し、気に入らないものには少ししかお金を分配しない。そのような不公平があった。
それらの経緯から、平等を求める声が具体化し、1990年には、政府からもらったお金は等級なく、平等に分配されることとなった。

生活を巡る闘争

生活の向上はまさに、村を直接管理している”皮膚防治所”との人権闘争だった。ヤンケンの規則を作るのは政府ではない。政府では、文政局と衛生局がかかわっており、それぞれ、皮膚防治所のお金や業務を管理している。管理はしているものの、政府が厄介なのではない。曲者はその下の皮膚防治所なのだ。政府からのお金がそこでせきとめられる。村人にはまわってこない。それが平然と行われていたのだ。
具体的にヤンケンであったことを記述しよう。

義足のお金は誰のもの?

1990年に教会の人が来るようになった。マカオのシスターのUさんは、教会から8,000元のお金を、義足を作るために寄付してくれた。そのお金は、ヤンケン村管轄の皮膚防治所に渡された。
しかし、時を同じくして、M神父さんが来て、義足を無料で作ることとなった。
そのため、皮膚防治所に、前に注文した義足をキャンセルするようにとお願いした。しかし…・。皮膚防治所は、オウさんたちの声を無視し、注文を強行しようとしたのだ。その狙いはただひとつ。8,000元のうち、義足の料金の余りを手に入れることができるからだ。Mさんは、”義足”を提供してくれる。Uさんは義足の”お金”を提供してくれる。管理者は、自分たちが甘い汁を吸える方法を選びたかったのだろう。

6万元?!

ところで、軍隊を退職した人には、政府から、軍事手当ての補助金が支給されていた。しかし、1990年、突然その支給が止まった。オウさんは軍隊に行っていないため、支給はなかった。しかし、オウさんは、正義の人だ。軍隊上げの村人のため、文政局の副所長に手紙を書いた。文政局というのは、皮膚防治所を管理する機関で、お金の支給を行っている。
オウさんの手紙への返信はこうだった。「毎年、皮膚防治所には、6万元を使用費として払っている。その中に、軍事手当てもあります。」
この手紙を見て、村人は驚いた。6万元?!それほどの大金を、防治所に払っている?!しかし、自分たちは相変わらずの貧しい生活…。
ハンセン病回復者の手足を奪い、骨の髄まで吸い尽くす野獣のような防治所が、いつも村人の前に立ちはだかっている。その巨大な悪の根源に、村人は萎縮し、声を上げることすらできない人もいる。村人の間でのみ文句を言い、ところに立ち向かわない人もいる。しかしながら、オウさんの正義の心は、どれだけ踏みつけられても生えてくる雑草のように強かった。

命を削って…

そのオウさんの強き信念が通じたのか、ヤンケン村の悲惨な運命のベクトルを少し変える人物が現れた。新しく防治所の所長になったAさんだ。
在任期間は短かったが、村人の生活改善に力を尽くしてくれた。
6万元の不明金に関しては、きちんと調べることを約束してくれた。防治所のリーダーが来て、会議を開き時間をかけて話し合った。そこで出た結論は、「各個人に400元(約6,000円)支給される」と。以前は、たった、25元から50元だ。なんということだ。以前の何年ものお金は、確実に管理者に奪われていたのだ。
運命のいたずらか、A所長は、たった1年で急病のため、この世を去ってしまった。しかしながら、それがキッカケとなって、その後は毎年400元支給されるようになった。徐所に、徐々に制度は改善され、1998年からは、村人にいくらお金が支給されるかが公開されるようになった。ここ2、3年は毎月、各個人195元のお金が支給される。その中から、45元が電気代や雑費として引かれる。つまり、村人が実際にもらえるお金は150元。日本円にして2,200円程度。日本の金銭価値が中国の10倍と考えても、2万円余り。1カ月2万円でどうやって生活しろというのだ。現に、村人は、1日3回の食事をすることができない。9時、4時の2回の食事のみである。村人の生活交渉にまだまだ終わりは見ない。所長に交渉すると、今年は、「各個人に195元出します」「水費、電気代は防治所が方法を探して解決します。」とのこと。すぐに了承が出たということは、昨年も195元もらえたはずだ。
いくら支給費が公開されたとはいえ、まだまだ厳然で公正なものではないのが現状だ。
残念なことに、Uさんからの義足の8,000元は、うやむやになったままだった。
「8,000元を村人に返してほしい」と村人。
「しかし、Uさんからは、義足を作るためにもらったものだから、勝手はできない。」と防治所。マカオのUさんに連絡をとっても不在。助手は、「私たちの記録では、お金は寄付していないようです」との返事。
防治所によると、「銀行に預けていて、誰も使う権利がない…」とか。
そんなこんなの押し問答のうちに、Aさんは急死…。
新しい所長に変わってしまった。
そのうち、管理者は、5、6人の村人を選出し、「潰瘍の手術が必要だ。」という名目で、新しい所長に付け入り、勝手に10日ほど入院させ、8,000元を使ってしまった。
以前と同じく、8,000元がすべて村人の手術のために使われたという保障はない。もちろん、村人は文句を言わなかったが、村人に相談なしの勝手な使用は不公平だという不満が残った。

ヤンケンの土地を巡って

他にも、土地を巡る問題があった。ヤンケン村の周りにある膨大な土地。この土地は、300人も患者がいた時代から自分たちで耕し、生活の糧を作ってきた大切な場所だ。もちろん、今は人数が減ったとはいえ、村人のものであることに変わりはない。しかし、悪に染まった防治所は、ここにまで目をつけた。
A所長の時はまだよかった。
人数が減ったため耕作できなくなった土地、山、木、池などをどのように使用するか。その問題を村人を交えた会議で討論した。その結果、「他人に賃貸し、竹などを売った利益の20%を村人に与える」ことを約束してくれた。
しかしながら…。
新しい所長になって、あらためて開いた会議でその議論は白紙に戻ってしまった。
「20%といっても証拠がないから決められない」「今は私が所長なのだから昔のことは考えないでください。今、私の方法で解決しましょう。」というのだ。
なんと、所長が提示した条件は、「各個人に200元を与える」というものだった。膨大な土地と引き換えに、たったの200元?!押し問答の末、「各個人に500元を与える」ということになった。500元でも日本円にして、たったの7500円…・。貨幣価値の違いを考慮してもあまりにもひどい取引だ。
以前に比べて良くなったとはいえ、”元ハンセン病患者”を、底辺の人間と考えているのではないかと考えざるを得ない。

報復

以上の話で分かるように、オウさんは、いわば”防治所の掃除人”だ。長い長い交渉をして、ひとつひとつ解決する。金の忍耐力を持った悪の掃除人。しかし、掃除される”悪”にとっては、オウさんほど邪魔な存在はない。声を発するのが、いつもオウさんだから、管理者からはやはり、「またあなたか!」と嫌がられている印象を受ける。
皮膚防治所で、トップに立つ人は、A所長のように生活の改善に尽くしてくれても、直接村人を締め付ける管理者は黙ってはいない。
露骨な嫌がらせを受けたこともあった。オウさんにとって大きな打撃となる嫌がらせだった。

親友に目をつけた

オウさんの一番の親友はSさん。Sさんは、村では、食事を作る担当をしている面倒見のよいおばちゃんだ。私たちが、ワークキャンプで村にいる時も鶏をさばいてくれたりする。今回も宿泊している間、ずっとおばさんがおいしい食事を作ってくれていた。
Sさんには、故郷に家族がいる。夫、娘4人、息子1人。しかし、20数年この村で暮らしている。住み慣れたヤンケンを離れて風当たりの強い外の世界へ出るのは、肉体的にも精神的にも厳しい。それにオウさんにとっては、おばさんは共に苦難を乗り越えてきた”戦友”だ。おばさんを失うのは、オウさんにとっても大きな打撃…。
そのことを知っていて、管理者の主任は一番やってほしくないことをやったのだ。
Sさんの故郷の証明書、つまり戸籍を勝手に取得し「故郷に帰って、世界の空気を吸ったほうがよい」と帰郷するよう仕向けた。突然の通知に、Sさんの苦難が始まった。毎日泣いて泣いて、何度も農薬を飲んで自殺しようとした。オウさんは悩んだ。故郷の夫に連絡して、自殺するのを止めに来てもらったりもした。悩んで悩んで、オウさんはA所長に相談した。この時も鉄の扉を開いてくれたのはA所長だった。
「私に任せてください。Y主任(嫌がらせをした人)を退職させるので、私を信じてください。」どこまでも心強い所長さんのおかげで、おばさんを失う悪夢から抜け出すことができた。

村長の座を奪われる

しかし、嫌がらせはそれだけではない。退職する最後の最後まで、Y主任の報復は続いた。
村長の選挙だ。一番村の生活改善に尽くしてきたオウさんに、主任は「長い間村長をやったのだから、少し休んだらどうか」とけしかけた。同時に、村人にまで手を伸ばした。管理者に取り入ろうとする村人を味方につけ、”脅し”で村人に手をまわした。それでもなびかない道理の分かる5、6人の人間には、「肢の手術を受けるように」という名目を作り、選挙の期間に病院に送り込み、発言権を消した。
そのような姑息な手段で、オウさんは村長から”引きずり降ろされた”のだった。

尊厳に対する思い

実のところ、オウさんは、ヤンケンの他の村人よりも生活には余裕がある。それは、Sさんと共に鶏を飼育してそれを売って生活費にできたからだ。鳥インフルエンザの問題から赤字が続き、今、鶏は飼っていないが、かつての鶏小屋を今は家として使っているため、村のほかの人と違い生活空間が広い。その上、幸福なことにオウさんの弟の息子が、毎年かなりのお金を支援してくれている。この村にいても家族の理解が得られる人は少ない。80%の人は故郷に家がない。20%の人はあっても帰れない。
一番生活が厳しい人は、この村に戸籍さえない人もいる。故郷では家族が嫌がり、帰れない。戸籍がないので、政府から毎月もらえる195元の補助金も受けられない。家族は毎月、食事ができるようにたった70元を払っているだけ。年老いて、身体の調子も悪く、行動するのさえ難しい。自分で田植えもできないし、鶏や犬を飼うこともできない。足が痛くても薬を買うお金もない。
そのような人も、この村にはいるのだ。
以前とはよくなったとはいえ、”裕福”とは程遠いのが、ヤンケン村の現状なのだ。
自分の生活が裕福なら、ヤンケン村の現状を凝視しなくても生活できるではないか。しかし、オウさんの”尊厳”に対する思いは、人一倍強い。「不公平なことを見ずにすませたくはない。他の人がどう思おうと構わない。」という信念がある。
声を上げることは、とてもエネルギーがいることだ。かつて、共に不公平と戦った陳さんはもういない。”尊厳”を求める戦いで、オウさんはどれほどの孤独を感じただろうか。それは、筆舌に尽くせないものがあっただろう。

時の流れに従って…

しかし、時代と共に、目の前の暗黒を開く存在が現れるものだ。
時々消極的になるオウさんの暗黒を開いたのは、なんと言っても”HANDA”と”ワークキャンプ”だ。
HANDAは、NGO(非政府組織)。ハンセン病を支援する団体で、1996年に正式に発足した。人権回復に目を向けたHANDAは、”政府”とは違う形でヤンケン村にかかわってくれた。ヤン先生は、今は定年退職したが、ハンセン病者にさまざまなことをやってくれた。自分の利益がなくても弱い人のために戦ってくれるヤン先生を、オウさんはとても尊敬している。
オウさん自身、”金の忍耐力と正義の心”が評価されたのか、HANDAの仕事にかかわることができるようになった。差別された生の声を語る”語り部”として、そして、実際に生活改善を求めるための”一回復者”として、外の世界で活動する機会が増えたのだ。活動の中で北京に行くこともある。
そのような活動を通して、消極的になったり、悲観的になったりした自分自身を見つめなおすことができた。「外の世界と触れて視野も広がり明るくなった。」能力がやっと正当に評価されるようになったオウさんにとっては、第2の誕生の意味を持っていたのかもしれない。

ワークキャンプで出会った朋友

このように、外で働くことが多くなっても、決しておろそかにしないことがある。それは、”朋友”との交流だ。
オウさんは、ワークキャンプで村に来たすべての人を記憶している。来た時期まで覚えているのだ。かつて村に来た”朋友”の写真をいつも懐かしく眺めているという。”朋友”に対する思いは、大人数であれ一人であれ同じだ。最大限の愛情で接してくれる。例えば、通訳の燕と私に対してもそうだ。「せっかく来てくれたのだから、私たちが満足のいくことなら何でもしてあげたい」という慈愛にあふれている。私たちが市場に到着する2時間も前に耕運機で迎えにきてくれたことを取っても、一人を大切にするオウさんの細やかな心が感じられる。
ところで、ハンセン病回復者の村ということで、世界から交流に来ることは以前からなかったわけではない。しかし、その交流方式は、日本でいう”慰問”というものに似ていた。今までになかった交流方式の扉を開けたのが、”ワークキャンプ”なのだ。
ワークキャンプでは、村人と共に生活する。お金ではなく労働力を提供し、村人との交流を行う。客人としてごはんを頂くのではなく、自分たちでごはんを作り後片付けをする。慰問というものには、「相手を慰める」という点で、裕福な人が貧しい人を助けるという”上から下”の方程式がある。しかし、ワークキャンプでは、上から下ではなく、同じ人間としての交流ができる。オウさんは、私たちのことを、”朋友”という。”朋友”とは、日本語で友だち。それほどオウさんは、日本人に特別な感情を持っている。オウさんは、キャンプ期間中に使ったトイレットペーパーを焼くキャンパーの姿に深い感銘を受けた。嫌な感情を出さず、村の人を”自然”にさせるという点でも、中国人とは違うのではないかという印象を持っているという。
戦争中、日本人が中国人にやったひどいことに対して中国人は「日本人を友だちにしたくない」という感情を持っている。中国人は歴史をとてもよく勉強している。その点から考えても、中国人の心の中には、日本人に対する障壁があって当然だと思う。しかし、オウさんは、「それは昔のことだ。今自分が抱いている日本人に対する感情とは無関係だ。どこの国にもよい人も悪い人もいる。自分の目の前にいる日本人はよい人ばかりだ。」と。
2001年初めてのワークキャンプはまさに夢のようなできごとだった。「中国でワークキャンプをしよう」と提案したのはカンサンミンさん。毎年夏に行われる日韓合同ワークキャンプのOBさんだ。
カンサンミンさんは、2001年のキャンプサイトをヤンケン村に定め、3回も下見をした。キャンプは、外の世界で差別された経験しかなかった村人にとっては、本当に夢のようなできごとだった。それもそのはずだ。ワークキャンプは村人に奉仕しようと意気込んでやってくる人よりも、自分たちが楽しむためにやってくる人が多いからだ。裏返せば、”恩着せがましい”態度を持っていない、つまり村人と対等であると言える。

外へと通じる扉

ワークキャンプは、今まで外に通じる扉のなかったヤンケン村に、大きな扉を作るような”一大イベント”だった。別れる時は、キャンパーも村人も涙を流した。去ってしまった村はシンと静まり返り、まるで喪に服すかのように哀しみにくれる。何日間かは、食欲がなくなり夜も眠れない、言葉にも表せない状態になる人もいる。
イベントをしてさようなら、では本当に夢で終わってしまう。しかし、ヤンケン村に心を奪われたキャンパーが、また次につなげるために行動を開始する。私が初めて参加した第3回キャンプでは、「中国でキャンプするのに中国人がいないのはおかしい!」という声を生かし、広州の大学をまわって広報活動を行った。そして、2003年夏、初めての”日中合同”ワークキャンプが実現したのだ。その時「なぜ中国人は来てくれないのかと思ったが、中国人が来るのは、10年、15年先になるだろうと思っていた。こんなにも早く来てくれるなんて…。」と言ったオウさんの言葉を私は決して忘れない。中国の学生が足を運ぶようになった今、オウさんも村人も、これが夢ではなく現実なのだということを実感しているころだろう…。

中国駐在員として

“1人立つ”覚悟で、中国のハンセン病問題に”裸”で飛び込んだ人もいる。ヤンケン村でデビューした原田燎太郎くん。彼は、ヤンケン村でキャンプに参加し、後にさらに貧しい村であるリンホウ村に住み込んで生活を始めた。”中国駐在員”として、村のレポートを日本に発信しながら、”中国の学生ネットワーク作り”という壮大な夢を胸に活動している。それは、ひとつの回復村にひとつの大学が継続的な精神的交流ができるようにという計画。彼は言葉も分からない異国の地に飛び込んで、どれだけ孤独を味わったか分からない。しかし、たった1年で、広州中心に、そしてリンホウ中心にものすごいスピードでネットワークをはりめぐらせた。まだまだ発展途上かもしれないが、「裸一貫の1人の人にこれほどのことができるのか?!」と同い年の私にとって、いつも希望になってくれる存在だ。
オウさんも、私が滞在した期間、何度も何度も燎太郎のことを口にした。オウさんにとって、燎太郎は好青年の鏡だ。「日本で名門の大学を出たにも関わらず、裸で外見を気にせず、一番不自由な人のところに真っ先に行く!」と興奮気味に語るオウさんは、息子の自慢話をする子煩悩なパパのようだ。

よくなったとはいえ…

このように、長い時間をかけて生活が改善してきたにせよ、いまだに生活をするのが精いっぱいである。日本の療養所では、長いトンネルを抜け、やっと回復者の精神生活を求められるようになった。長年の療養所での生活を本にまとめる人もいる。絵画や写真で自己表現する人もいる。陶芸や手芸を楽しむ人もいる。日本の療養所を知っている人間として、私は日本の精神生活の一部をヤンケン村に伝え、日本の療養所と中国の回復村との心の架け橋になれればと思っていた。病に冒された人の気持ちは、同じ病になった人が一番深く理解できるとの思いもあったからだ。
しかし、私が思った以上に生活に精いっぱいであることが分かった。精神生活の充実にはまだまだ時間が必要のかもしれない。しかし、オウさんから学んだ”勇気”と”金の忍耐力”を胸に、微力ながらそれに貢献できるようにと願ってやまない。
今以上に生活の苦しかった昔は、その生活に耐えられない人は、みな自殺した。「ねばり強い人が今、この村で生きている。」オウさんのその言葉が、今でも私の心に突き刺さって離れない。この村に来ると、まるで別世界に来たような錯覚を覚える。静かなユートピアのような印象を受けるのは、実際に生活をしたことがない外部の人間が感じる印象かもしれない。実際の厳しい生活を考えると、この村を”心地よい”という言葉で表現するのは誤っているのかもしれない。
しかし、以前より少しヤンケン村のことを知ってもやはり、心地よいと感じるのはなぜだろうか。
その答えは分からないが、何十年の月日をかけ、血も涙も飲み込んできた大地と、耐えられない生活に耐え切ったねばり強い村人が私たちを包んでくれるからかもしれない。

志賀純子さんの聞き書きより。志賀さんならびに本人の許可を得て引用しています。