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コロンビア アグア・デ・ディオスより

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コロンビアには現在2つのハンセン病療養所があります。1つはコントラタシオン、もう1つはアグア・デ・ディオス。コントラタシオンの開設は1860年、アグア・デ・ディオスはその10年後の1870年です。この2つの療養所の前に、カニョ・デル・オロという療養所もありましたが、1790年に開設、1950年に閉鎖されています。閉鎖にあたって、入所者はコントラタシオンとアグア・デ・ディオスへと移送されました。

さて、アグア・デ・ディオスです。1864年に各県にハンセン病療養所を作ることを決定する法令が出されました。当時、コロンビアにはハンセン病患者が多く、各地で偏見や差別のために故郷で暮らすことができなくなった人たちがいたのです。クンディナマルカ県では、アグア・デ・ディオスをハンセン病患者のための土地とするとして、政府が土地を用意するということになりました。
天候もよく、ボゴタからもアクセスのいいクンディナマルカ県には温泉がありますが、そこから遠くない中都市であるトカイマを避寒地とし、富裕層の多くが別荘を持っていました。この富裕層やその親族など、皮膚病のある約70人はここに逗留し、湯治をしていました。
1864年の法令の後、ボゴタからトカイマに100人を超えるハンセン病患者が連れ込まれる、という噂が立ち、これを恐れたトカイマの住民は、もともといた約70人を一挙にまとめてアグア・デ・ディオスに強制的に連れて行ったのが始まりでした。そこにあるハンセン病を治すと言われる「アグア・デ・ディオス=神の水」を求め、また安住の地を求めて、約70人がトカイマからアグア・デ・ディオスに着くころには、約40人になっていたといいます。
政府は土地を用意しましたが、その主目的は、ハンセン病患者の隔離。そこには何もありませんでした。約40人の人たちは、自分たちの力で土地を切り開き、小屋を建て、なんとか生活を始めました。1864年の法令の発令後、政府は予算確保に努め、1870年の入植後、県政府の予算で少しずつ住居などが整えられるようになりました。
しかし最初の病院であるサン・ラファエロ病院が建てられたのは、1880年ごろ。入植から10年以上がたってのことでした。1872年には現在、コロンビアの国家遺産になっている「嘆きの橋」ができました。

 

この橋ができるまでは、アグア・デ・ディオスへの道の途中に走るボゴタ川は
両岸にわたされたロープにつるされたカゴでわたっていました。

「嘆きの橋」の名前の由来は、この橋を境に、家族とハンセン病にかかった人たちが別れを告げ、ハンセン病にかかった人たちだけがこの橋を渡り、アグア・デ・ディオスへと向かうからでした。実際にはこの橋は、隣のトカイマという市の中に位置しており、アグア・デ・ディオスまではこの川を越えて、さらに林や藪の中をかき分け約3日かかったといいます。
さて、アグア・デ・ディオス。神の水とはなんだったのか、というと、先ほど出てきた日本でもおなじみの温泉でした。日本の温泉とは違い、生ぬるい、というくらいの温度ですが、かすかな硫黄のにおい。うっそうとした木々に囲まれたその場所は、空気も爽やかですが、湿度が高くハンセン病にかかった人たちが暮らすには難しいということで、ここからは少し離れた町に暮らしながら、湯治を続けたそうです。

現在はいくつかのシャワーブースと、ジャクジーがあります。

コロンビアで1873年に制定されたハンセン病隔離法は、1961年に廃止されました。アグア・デ・ディオスは1963年に地方自治体として登録され、1966年には初代市長が就任しました。1963年頃には、約8000人の回復者が暮らしていましたが、解放令の発令と共に多くがアグア・デ・ディオスを去り、現在では回復者の数は約600人。市の人口の約13,000人のうち、ハンセン病と関係のない人たちもずいぶんと増えました。緑の多い美しいアグア・デ・ディオス。歴史を残し、いかに発展していくかが協議されています。