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ハンセン病患者を苦しめた「重監房」の事実。歴史的な発掘調査資料を通して考える「人権」とは何か

実寸大で再現された重監房の模型の前に立つ、重監房資料館・学芸員の黒尾和久さん

取材:ささへるジャーナル編集部
※展示物の写真は、重監房資料館の許可のもと撮影しています

群馬県草津町にある国立療養所「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」(外部リンク)。敷地内にはかつて、ハンセン病患者を懲罰のために収容した建物「重監房(じゅうかんぼう)」がありました。正式名称は「特別病室」といいますが、病室とは名ばかりで、実際には治療は行われず、「患者を重罰に処すための監房(=牢獄)」として使用されていました。

「重監房資料館」(外部リンク)は、こうした特別病室(重監房)とハンセン病問題に関する資料の収集・保存と調査・研究の成果を発表することにより、今もなお根強く残るハンセン病に対する偏見・差別の解消を目指しています。

現在、同館では2026年6月まで、企画展「再論:重監房跡の発掘調査」が開催されています。重監房の発掘調査により発見された貴重な資料の数々を通して、知られざる過去の実相に迫る内容です。

今回は、担当学芸員である黒尾和久(くろお・かずひさ)さんに、調査・研究から分かっている特別病室に収監されたハンセン病患者たちの当時の様子や、なぜそのような悲惨な出来事が繰り返されたのか、その背景と、いまを生きる私たちに伝えたい思いについてお話を伺いました。

企画展「再論:重監房跡の発掘調査」の展示室の様子

ハンセン病当事者の声から実現した「重監房」の復元

――「重監房」とはどのような施設だったのでしょうか。

黒尾さん(以下、敬称略):重監房とは通称で、正式には「特別病室」といいます。全国の国立ハンセン病療養所には監禁室がありましたが、それでも収まりきらない、つまり「反抗的」や、「扱いに困る」と判断された患者を特別に収容するためにつくられました。公的には「療養所の秩序を守るため」という名目でしたが、実際には患者を監禁し、罰することが目的だったんです。

栗生楽泉園の正門の傍にあるコンクリート基礎のみが残る重監房跡地。風化が激しく、今後の保全も課題だという
重監房跡地には、発掘調査から分かった想像図が設置されている

黒尾さん:建てられたのは昭和13年(1938年)で、昭和22年(1947年)まで使われていました。現在は基礎部分が残されているのみですが、9年間の間に述べ93人が収監され、そのうち23人が亡くなったといわれています。

当時、各地のハンセン病療養所長には、所内の秩序維持を目的とした「懲戒検束権(ちょうかいけんそくけん)」という権限が与えられていて、その判断ひとつで患者を監房に収容することができました。ハンセン病療養所では司法が全く機能しておらず、重監房に収監された人たちは、裁判などの法的手続きを経ることなく、自由や人権を奪われていたのです。重監房の存在そのものが、そうした差別の象徴と言えるでしょう。

――改めて重監房資料館の目的と、設立の経緯について教えてください。

黒尾:重監房で行われていたことは、ハンセン病患者に対する人権侵害の中でも頂点に達するほどひどいものでした。その事実と歴史を後世に伝え、いまだに残る偏見や差別をなくすことが、資料館の最大の目的です。

重監房の再現の必要性を訴え続けた谺雄二さん。2014年4月30日に資料館が開館したのを見届け、12日後の5月11日に息を引き取った

黒尾:設立の背景を語る上で欠かせないのが、栗生楽泉園に入所されていた詩人・谺雄二(こだま・ゆうじ)さんの存在です。国家賠償訴訟(※)後に谺さんは2003年に「重監房の復元を求める会」を結成し、10万を超える署名を集めて厚生労働省に提出しました。

その後、ハンセン病問題対策協議会で、歴史的建造物や資料の保存・復元について議論が行われ、重監房の復元を最優先課題とすることが確認されました。ワーキンググループが設けられ、復元に向けた検討が進められた結果、2014年に重監房の再現施設を備えた資料館として開館しました。

※「ハンセン病国家賠償請求訴訟」のこと。1998年(平成10年)に、ハンセン病回復者が「らい予防法」は日本国憲法に違反するものであるとして国家賠償を求める裁判を起こし、2001年(平成13年)5月11日に原告の訴えを認める判決が熊本地裁から出された。国は控訴を断念し、この判決が確定

重監房跡地の発掘調査について解説する黒尾さん

黒尾:ただ、設立が決まったものの、復元に必要な基本的な情報はほとんど残されていませんでした。設計図や建築に関する書類は一切なく、残っている収監経験者や関係者の証言にも揺れがありました。屋根は瓦ぶきだったのかトタン屋根だったのか、明かり取りの窓にはガラスが入っていたのか、頑丈な牢屋だったのか、木骨モルタルの粗末な造りだったのか――意見が分かれていたのです。

そこで当時、東村山の国立ハンセン病資料館に勤めていた私は、発掘調査したらどうかと提案しました。その後、紆余曲折はありましたが、もともと考古学を専門としていた経験を生かし、調査に携わることになったのです。

後になってから、建物の外観が分かる写真が1枚だけ発見されました。もし先に見つかっていたら、資料館の展示内容もまた違ったものになっていたかもしれません。

1950年に撮影された栗生楽泉園。左端、赤い丸で囲われているのが重監房で、現在唯一残る建物の様子が分かる写真だ

出土品から浮かび上がる、過酷な重監房の実態

――今回の企画展「再論:重監房跡の発掘調査」について教えてください。

黒尾:開館以来の常設展示「発掘調査による重監房の検証」をさらに充実させることを目的としたもので、いずれ常設展示として置きたいと考えています。会場では重監房の位置が分かりやすい大きな図面や写真を展示しているほか、発掘調査によって発見されたさまざまな出土品を展示しています。

屋根の一部と想定されるモルタル材

――これまでの調査、研究で発見されたもの、分かっていることについて教えてください。

黒尾:建物自体は木骨モルタル造りの簡素なもので、長期間使用することを想定したものではなかったと考えられます。もちろん暖房設備などはなく、冬場は気温がマイナス20度近くに達することもありました。

独房は8室あり、1室あたりの広さはおよそ4畳半ほど。窓はなく、小さな明かり取りからわずかな太陽の光が差すのみで、昼間でも薄暗い状態でした。電灯の設備があったことが発掘調査で判明しましたが、独房内には通電されていなかったと考えられています。

また、完全な個室ではなく、多いときで4~5人、男女の区別もなく収監されていたことも分かっています。

重監房跡地から出土した錠前。専門家による保存処理を経て、今回の企画展で初めて一般公開された

黒尾:重監房が単なる「病室」ではなく、厳重な「牢屋」であったことを示す決定的な証拠が、発掘で見つかった錠前です。玄関、通路、そして各房の扉にそれぞれ鍵がかけられており、合計4カ所の錠前を開けなければ中に入ることができない構造になっていました。

――想像するだけで、とても過酷な環境ですね……。

黒尾:特に集中的に調査を行ったのは便槽、つまりトイレの穴です。建物の簡素な造りに対して、トイレだけはコンクリートで頑丈に作られていたんですね。これは、収監者が掘って逃亡するのを避けるためだと考えられています。もしかしたら、ここに収監された人が落としたものが残されているかもしれないと考えました。

トイレからは収容者の暮らしぶりが分かるさまざまな物が発見された

――便槽からはどのようなものが発見されたのでしょうか。

黒尾:まずは、えんぴつです。昭和22年(1947年)の8月、参議院群馬地方区の補欠選挙が行われた際、栗生楽泉園を訪れた方が重監房の存在を知り、それがきっかけとなってメディアで報じられるようになりました。

トイレから発見されたえんぴつ

黒尾:その後、国会調査団が来所し、その様子は「日本ニュース(※)」で放送され、記録に残されました。映像の中には、監房の壁に「自分は無実である」と書き残した文字や、収監中に日数を刻んだ跡なども映し出されています。このえんぴつは、そのような壁書きを残す際に使われた可能性があります。

このほか、木箱やお椀、梅干しの種も大量に見つかっています。「日本ニュース」にも一瞬だけ映っているのですが、収監者には1日2回、木箱に入ったご飯と梅干し、もしくはたくあんだけの弁当が配給されていました。味噌汁もありましたが、具はなく、やかんから直接お椀に注がれていたといいます。これらの出土品は、そうした証言や映像の内容を裏づけるものです。

また、もみ殻も出土しています。これは、おそらく枕として使われていたものだと考えられます。分析を行ったところ、らい菌由来のDNAが検出されました。つまり、この場所に実際にハンセン病患者が収監されていたという、決定的な証拠になったのです。

※「日本ニュース」とは、1940年から1951年まで制作されたニュース映画

小ぶりの木箱や梅干しの種が、収監された人々の食事を想起させる
外の入所者から差し入れられたと想定される出土品

黒尾:ここまでは想定していた通りでしたが、想定外のものとして、牛乳瓶や卵の殻、牛骨などが出土しました。注射器も見つかっています。これは、ハンセン病の後遺症で神経痛のある人が痛み止めとしてモルヒネを使用していたものだと推定できます。

これらは当然、収監時に持ち込むことはできません。では、どこから来たのかというと、外からの“差し入れ”が想定されることになります。

懲戒検束権では、収監できる期間は最大90日までと定められていたにもかかわらず、重監房には500日以上収監されていた人がいます。しかも、罰として収監者の食事量は一般の入所者よりも減らされていた。

配給されていた食事のカロリーを計算すると、500日以上も生き延びることは不可能です。こうした品々が出土したことで、収監者が外部の支援を受けて生き延びていたことを示す状況証拠となりました。長年の疑問が、ようやく明らかになったのです。

収監者一人ひとりの生きた証を掘り起こしたい

――トイレに、当時の様子が分かるさまざまな証拠が眠っていたのですね。

黒尾:ただ、あくまでも主役は、この場所に監禁されていた93人の収監者なんです。発掘調査によって、建物の構造だけでなく、そこで生きた人たちの姿が少しずつ見えてきました。谺さんたちが願った「重監房を復元し、収監者のことを知ってほしい」という思いに、ようやく少し近づけましたが、収監されていた人たちについては、ほとんど情報がありません。

収監者の記録パネル。情報がない人については、名前の右側が空白になっている
記録パネルには、収監された人の勾留期間や入室理由、死因なども記載されている

黒尾:会場では名前を一部伏せて収監者の記録も展示しています。ですが、手元に残されているのは名前や収監された理由、期間といった最低限の記録だけで、多くの場合、その人がどんな人生を歩んできたのかが記された資料は残されていないのです。

収監されていた方の中に、ご存命の方はいませんし、重監房のことを覚えている関係者も年々減っています。現在も調査を続けていて、新しいことが分かるたびに情報を更新していますが、一人ひとりのライフレコード、生きた証を集めていくことが、私たちの大きな使命だと考えています。

――収監された理由については、どのようなことが分かっているのでしょうか。

黒尾:本当にさまざまです。例えば、療養所で生活改善を求めて訴え出たものは「園内不穏分子(えんないふおんぶんし)」として収容されました。

また、対米英戦争(※)が推進された当時、キリスト教は「敵性」と見なされていたため、療養所の管理者よりもキリストを信じるという理由で「扱いにくい」と判断され、多くの教徒の方が収監されました。金品強奪や窃盗などの容疑で収監されたと記録されている人もいますが、実際に証拠に基づいたものかは分かりません。

※1941年から1945年続いた、日本がアメリカ・イギリス・オランダなどの連合国と戦った第二次世界大戦の一部を指す

トイレから発見されたメガネ
トイレからは指が欠損した収監者のものと考えられる手袋なども発見されている

黒尾:モルヒネを痛み止めとして使っていた人が「中毒者」として収監されることもありましたが、本来は、治療が必要な状態です。ほかにも、子どもが近所の畑からいもを盗んだという理由でハンセン病を患った父親が収監された事例や、家に一時帰宅していた17歳の少年が、殺人事件の捜査に巻き込まれ、「らいである」という理由だけで取り調べもなく重監房に連れてこられ、収容中に亡くなったという悲しい事例も……。

今も見えない場所で同じような偏見・差別がないか、思いを馳せてほしい

――来場者の方からはどのような反響や声がありましたか?

黒尾:「人間って、こんなにひどいことができてしまうんだ」と衝撃を受ける方は本当に多いですね。草津温泉を訪れた方が、バスターミナルに貼られた重監房資料館の広告を見てよく知らずに来館し、「こんな場所があったなんて」と驚かれることもあります。

また、外国人の入管問題や新型コロナウイルスなど、身近な社会問題と重ね合わせて考えるきっかけになったという声や、発掘に興味がある方が「これは貴重な展示だ」と言ってくださることもあります。

実寸大で再現された 重監房の入り口をくぐると何重もの扉が。その奥に独房がある
収監者の様子なども再現された独房。昼間でもほとんど太陽の光が入らず薄暗い

――最後に、学芸員として、多くの人に知ってほしいこと、伝えたいことを教えてください。

黒尾:決してアクセスがいい場所ではありませんが、ぜひ一度足を運んでいただけたら嬉しいです。

重監房で行われていたことは信じがたいほどひどいものですが、現実にあった出来事です。ハンセン病問題の歴史を知ることで、「過去にあったこと」としてではなく、もしかしたら「いまも見えないところで、同じような偏見や差別、暴力が行われているのではないか」と考えるきっかけにしてほしいと思います。

重監房資料館は、ハンセン病回復者が立ち上がったことで発掘調査が進められ、多くの人に知ってもらう場になってきました。そもそも、当事者がここまでやらなくてもいいような社会、当事者を生まなくてもいい世の中にするためにはどうすればいいか、考えてみてもらえたらと思います。

毎年秋には、ボランティアガイドによるウォーキングツアーも開催されているので、こちらもぜひ参加してみてください。

展示物を通していまを生きる人たちに伝えたい思いを語る黒尾さん

編集後記

今回の取材では、重監房の原寸大で再現した独房の模型にも入らせてもらうことができました。狭くて、真っ暗で……冬には雪の降る草津では凍えるような寒さの中で、どうやって過ごしていたのだろう、神経痛などの症状も辛かったのではないかと思いを巡らせます。

日本三名泉の一つにも数えられる草津温泉は、古くからハンセン病に効くとされ、全盛期の江戸時代には多くの湯治客が訪れたそうです。しかし、明治時代に入ると、混浴や健病同宿が避けられるようになり、ハンセン病患者たちは湯之沢地区に移住させられました。

彼らは自ら土地を切り拓き、患者による、患者のための“自由療養村”を目指したのですが、1931年(昭和6年昭)の「癩(らい)予防法」の成立によって強制隔離政策が進められ、翌年に開設された栗生楽泉園に入所させられることになりました。

重監房に収監された人の中には、激しい差別を受け、無理やり入所させられたことに抗った人もいたのではないでしょうか。草津温泉を訪れる際は、この土地の歴史にも心を寄せてもらえたらと思います。

撮影:十河英三郎