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手紙に綴られた療養所での暮らし、家族への想い。強制隔離された少年の前に立ちはだかったハンセン病と社会の壁

国立ハンセン病資料館の主任学芸員・田代学さん

取材:ささへるジャーナル編集部

かつて「癩(らい)病」と呼ばれ、不治の病として恐れられたハンセン病。1907年(明治40年)から隔離政策が始まり、1931年(昭和6年)に「癩予防法」が制定されると、日本中の全てのハンセン病患者が家族や社会から切り離され、山奥や離島にある療養所に強制隔離されました。

この法律は、ハンセン病が極めて感染力の弱い病気であるにもかかわらず、誤った知識と恐れを広め、患者とその家族の尊厳を著しく傷つけました。1996年に廃止されますが、その影響は今もなお偏見・差別という形で根強く残っています。

東京・東村山の国立ハンセン病資料館では、1960年、小学6年生のときにハンセン病にかかり、強制隔離された少年「勝彦」(仮名)が両親に宛てて書いた手紙を展示した企画展「お父さん お母さんへ ハンセン病療養所で書かれたある少年の手紙」(外部リンク)が、2025年12月27日まで開催されています。

国立ハンセン病資料館1階にあるギャラリースペースで開催されている本企画展の様子

今回展示されているのは中学生時代から高校生時代に書かれた13通。勉強に励んだり、友だちと遊んだり……。一見すると、「社会」の人々と同じような暮らしを送っているようにも思えます。

しかしその一方で、神経痛で長期間にわたり入院していたことや、社会復帰への不安、「自分は何のために生きているのか」という心の葛藤を読み取ることができます。

今記事では、主任学芸員・田代学(たしろ・まなぶ)さんに、企画展開催の背景や勝彦少年の手紙から分かる当時の生活、社会との間に立ちはだかった大きな壁についてお話を伺います。

今なお残るハンセン病に対する偏見・差別をなくすために私たちにできることとは。

中学生から高校生時代を中心に書かれた肉筆の手紙

――まずは、本企画展の概要について教えてください。

田代さん(以下、敬称略):今回の企画展では、小学6年生の時にハンセン病と診断された勝彦少年が、国立ハンセン病療養所である熊本県の菊池恵楓園(きくちけいふうえん)で暮らしていた1961年(昭和36年)から、岡山県の長島愛生園(ながしまあいせいえん)にある邑久(おく)高等学校新良田(にいらだ)教室に通っていた1967年(昭和42年)までの7年間に書いた手紙のうち、13通を紹介しています。

これらの手紙は、2017年に勝彦さんのお母さまが亡くなり、遺品整理をしていた時に発見されたものです。全部で67通あり、2023年に当館へ情報提供をいただいたのをきっかけに、今回の企画が立ち上がりました。

療養所から家族へ送られた手紙がまとまった資料として見つかることは非常に珍しく、手紙に焦点を当てた初めての企画展となります。

――そもそも、ほとんど手紙が残っていないということでしょうか?

田代:推測になりますが、手紙や面会などを通して患者さんと家族のやりとりは少なからずあったと思われます。ただ、当時は家族も「身内にハンセン病患者がいる」と知られると社会から偏見や差別を受ける時代でした。そのため、手紙を残しておかなかったり、残っていても貴重なものとして扱われなかったりしたのではないかと考えられます。

この状況そのものが、偏見や差別の存在を象徴しているようにも思えます。

展覧会について解説する田代さん

――今回展示した13通の手紙は、どのように選んだのでしょう?

田代:本当はもっと多くの手紙を見ていただきたかったのですが、展示スペースに限りがあるため、特に隔離や偏見・差別が続いていたこと、そして療養所という隔離された環境で生活していたことが伝わるものを中心に選びました。

会場内は、「1.中学生時代 早く病気を治したい」「2.高校生時代 社会復帰への不安」「3.お父さん お母さんへ 家族への想い」の3つのテーマに分けて展示しています。

――手紙にはどのようなことが書かれているのでしょうか。

田代:手紙を書き始めた中学生の頃は、療養所内でのレクリエーションなど、隔離された中でも楽しく過ごしていた様子が綴られています。戦後は隔離政策が少し緩み、船で長崎へ日帰り旅行に出かけたり、地域の人々と交流する機会もあったようです。

――盆踊りに「“社会の人”もいっぱいきて」という表現にドキッとします。

田代:よいところに気づかれましたね。何気ない一文に、隔離されていた現実がにじみ出ていて、来場者アンケートでも反響が寄せられました。日常的な楽しみについて書かれている一方で、やはり考えてほしいのは、勝彦さんが病気で隔離されているということです。

手紙にはハンセン病特有の症状について記されたものも少なくありません。神経病によって体重が9キログラムも減ってしまったという記述もあり、体調は相当辛かったのではないかと想像できます。また、その神経痛で入院していたことを「心配をするのではないかなあと思って」と事後報告する手紙もあり、家族への気づかいも伝わってきます。

“社会の人”と一緒に盆踊りを楽しんだ様子が綴られた手紙。櫓(やぐら)の絵も添えられている
 

手紙から浮かび上がる、社会からの偏見・差別

――社会への批判や先生への反発、外の中学生への憧れなども書かれていますね。

田代:ただ隔離されているだけじゃない、社会に対する抵抗も読み取れます。“社会”は反発する対象であると同時に、憧れの対象でもありました。

中学を卒業した勝彦さんは、ハンセン病療養所では唯一の高校である、長島愛生園の邑久高等学校新良田教室に通うようになります。理系の大学を志していましたが、新良田教室は定時制であり、受験に必要な数学Ⅲは独学で学ばなければなりませんでした。

手紙には「先輩に独学で数Ⅲまで終った人がたくさんいますので、僕にもやれないことはないでしょう。」と書かれていますが、「いま考えると“たくさんいますので”というのは考えられない」と勝彦さんはお話しされていました。ここに強がりのようなものを感じます。

また、この頃は神経痛などの症状は落ち着いていますが、ハンセン病の症状で変形した手の手術を受けるかどうか葛藤する様子が綴られています。なぜ悩むのか。その背景には社会からの偏見・差別があるからです。

多くの手紙は「体に気をつけて」など両親を気遣う一文と、「お父さん お母さんへ」で締め括られている

田代:高校卒業を前に書かれた手紙には、「僕がここで身につけたことは、耐えること、忍耐ということを強く、自分のものにしたと思います。」という一文があります。勝彦さんは高校卒業後に社会復帰を果たすのですが、この“忍耐”という言葉に、「もう二度と療養所には戻らない」という強い決意を込めたと、勝彦さんは教えてくれました。

――お父さんが入院し、心配されていたことなどにも触れられていますね。ちなみに、療養所にいる期間、ご家族との面会はあったのでしょうか?

田代:お祖母さんは、恵楓園に何度も訪ねてくれたそうです。勝彦さんは、そんな心の支えでもあったお祖母さんの死に目に会うことができませんでした。ご両親はお祖母さんが亡くなった後に、勝彦さんに知らせました。葬式に参列できなかった悔しさ、怒りがにじみ出ている手紙も展示しています。

この手紙では一周忌の参列を希望していますが、その願いも叶わず、勝彦さんがお墓参りに行けたのは30代になってからだったそうです。それほど、故郷の地を踏むということには、偏見・差別の大きな壁が立ちはだかっていたのです。

ではなぜ、ご両親は勝彦さんを呼べなかったのか。それは、家族でさえもハンセン病に伴う偏見・差別を受けていたからではないでしょうか。社会の私たちの問題としてとらえる必要があります。

手紙には祖母の死に立ち会えなかった怒りがにじみ出ている

「ハンセン病療養所にいた」過去を未だに伝えられない現状

――今回の展示で難しかった点や工夫された点は?

田代:手紙は一般的に展示資料として扱いにくい面があります。文字を読むのは負担があるからです。だから、展示する手紙を絞り、ハンセン病問題の全体像の中で手紙を理解できるよう工夫しました。また、実物の手紙に加えて、関連する資料やイメージイラストを展示することで、当時の状況が想像しやすくなるようにしています。

入所時の辛い状況などが書かれた手紙は存在しませんが、伝えなければいけない大切な情報です。イラストレーターさんと一緒に勝彦さんに取材を行い、入所の経緯とともに企画展の概要を伝える導入映像も作成しました。

手紙とともに隔離されていた当時の様子がよく分かる資料やイメージイラストなども展示
会場では勝彦さんの入所の経緯と展示された手紙の概要を紹介する動画が上映されている

――来場者からはどのような反響がありましたか?

田代:多くの方が関心を寄せてくださり、来場者は比較的高い年齢層が多いのですが、20代、30代の若い方も来場してくださっていて嬉しいです。

手紙を深く読み込んでいる方も多く、9月27日に開いた俳優・趙珉和(ちょう・たみやす)さんによる朗読イベントでも、「隔離生活という現実が伝わってきた」「勝彦さんの複雑な感情に胸が締めつけられた」など、多くの反響をいただきました。

無料で配布されている本企画展の図録には、勝彦さんの療養所での暮らしや思いを語った解説も掲載されている
図録は、2000年に勝彦さんが長島愛生園に訪れ、高校時代の風景を思い出しながら描いた水彩画が表紙になっている

――今回の展示を通してどのようなことを伝えたいですか?

田代:企画展開催にあたり、勝彦さんとはオンラインやメールで何度もやりとりをしました。

勝彦さんは現在77歳で、ご家族にも恵まれ、幸せに暮らしています。それにもかかわらず、今回の展示では仮名での紹介を条件にされました。これは、今も根強く残る差別や偏見が、世間に大きな壁として存在していることを示しています。

勝彦さん自身は、隔離された環境下でも青春時代を過ごしていたことを見てほしいと話しています。個人的には、それは「青春」と言いつつも、いわゆる普通の青春とは少し違う、“隔離された中での青春”だったのではないかと思います。

一般社会と同じように友情を育み、楽しく過ごしていた時間も確かにあったでしょう。しかし、思い出すときにハンセン病になったことに伴う人生の評価も付きまとってくる。過酷な環境で生き抜いた力強さと同時に、社会の責任についても考えずにはいられません。そもそも、本当にハンセン病患者・回復者は隔離される必要があったのでしょうか。

展示を通して、今なお残る偏見・差別について考えるきっかけにしてほしいと語る田代さん

田代:国の隔離政策や偏見・差別によって、多くのハンセン病患者・回復者は家族との関係を断たれました。そんな中、勝彦さんは手紙のやりとりを通じて家族とのつながりを維持しました。それは、隔離政策や偏見・差別に抗った証拠でもあります。

来場された方々には、手紙に綴られた葛藤や不安は本当に過去のものなのかを考えてほしいと思います。

また、手紙からは勝彦さんの豊かな人間像も浮かび上がります。勝彦さんや、手紙に登場する人物と自分が同じ立場だったら何を考え、どうしていたか、ぜひ想像してもらえたら嬉しいです。

編集後記

勝彦さんが友人に「何のために生きているか」と尋ねられたときのことが書かれた一通が印象に残っています。手紙では「考え込んでしまった。けどやはり、自分のためではなかろうか。成人してお父さんになれば、やはり子どものために生きているのだろうかと考えました」と続けられています。

あくまでも推測ですが、治ったとしても偏見・差別を受ける病と向き合うと同時に、10代の若さでありながら「いつか自分も、社会の人と同じように家族が持てるだろうか」という不安が潜んでいるようにも感じられるのです。

13通の肉筆の手紙を通して、あなたは何を感じるでしょうか。ぜひ会場で、一通一通の手紙に込められた想いに触れてみてください。

撮影:十河英三郎