ハンセン病の歴史に学ぶ History of Leprosy

We are sorry, this page has not been translated yet.

世界に共通する差別と排除の歴史
~「差別者という私」に向き合う~

ハンセン病が治る病気となって半世紀が経ちました。
ハンセン病が不治の病であった時代、世界各地に隔離を目的とした施設が作られ、住む場所を失った患者・家族が集まりコロニーや定着村が形成されました。
ハンセン病が治る病気となった今、こういった「特別」な場所は急速に姿を変えつつあります。病院・療養所・隔離施設の縮小・転換・閉鎖は世界中に見られ、それに伴い、そこで生きた人々の記録や記憶も失われつつあります。
ハンセン病の歴史は、病気そのものよりも、この病気と闘った人々とその家族の歴史であり、かつこの病気の研究・治療・看護に尽くした人々の歴史でもあり、そして社会がすなわち私たち一人一人がハンセン病にどう向かい合ったかのという歴史でもあります。
ハンセン病の歴史を保存し、その歴史に学び、次の世代に語り継ごうという動きが、世界各地に生まれています。笹川保健財団は、「今」という時を逸すると、歴史を語る建造物や記録・記憶をふたたび取り戻すことはできないという認識の下、現地の人々と協力し、様々な取り組みを支援しています。

クリオン島 ーフィリピンー

アメリカ植民地下の1906年、フィリピン全土のハンセン病患者の隔離と療養を目的として、パラワン北部のクリオン島に開設された療養所は、1934年には6500人の患者を収容する世界最大の療養所となりました。島内は職員地区と患者地区に厳しく分けられ、その間には検問所がありました。同時にクリオン療養所は1920年代から世界のハンセン病の研究と治療の拠点でもありました。
一世紀の時の流れはクリオンにも大きな変化をもたらしました。開設当初「生ける死者の地」とも呼ばれたハンセン病患者の島は、1992年、フィリピンの一地方自治体となりました。約2万人の島民のほとんどは、ハンセン病患者であった人々や初期の医療関係者の子孫たちで、初の選挙で選ばれた初代市長はかつて患者として収容されたヒラリオン・ギア氏でした。
クリオン療養所開設100周年の2006年には、旧研究棟が資料館として公開されました。クリオンは美しい海に囲まれた観光地として、また北パラワン海域の人々の健康を守る総合医療施設を備えた島として発展をめざしています。クリオンハンセン病資料館は、人々がハンセン病の歴史を忘れ去るのではなく、過去を知り、過去を乗り越えて生きる姿を、島を訪れる多くの人々に伝えています。
笹川保健財団はクリオン療養所研究棟の資料館への転換、開設当初から残されている文書の整理と保存、この島に残るハンセン病の回復者・家族・子孫による証言の収集などを支援しています。

クリオン島 ーフィリピンー
患者作業で島に刻まれたアメリカ統治下の保健省紋章
クリオン島 ーフィリピンー
2006年に開館した資料館

スンゲイブロー ハンセン病療養所 ーマレーシアー

スンゲイブロー ハンセン病療養所 ーマレーシアー
スンゲイブロー ハンセン病療養所

首都クアラルンプールの北25キロ、総面積526エーカーに及ぶ広大で肥沃な土地に1926年時の英領マレーシア政府によって開設されたスンゲイブロー ハンセン病療養所は、当時、世界に誇る理想的な農業自立コロニーとうたわれました。
1850年代からマレーシア全土でハンセン病患者の隔離が行われ、周辺の島々に閉じ込めるといった悲惨な収容施設が生まれていきました。1899年、大英帝国植民地政策の一環としてハンセン病患者の隔離法が制定され、隔離は国の政策となりました。患者の悲惨な状況に心を痛めていた英国人医師トレバースは、患者が働きながら治療も受けられる、自給自足・自立の農業コロニーとして、1926年スンゲイブロー ハンセン病療養所を創設しました。広大な敷地の中に一戸建ての小住宅が点々と建ち、畑と医療施設に取り囲まれたコロニーは、一時は3000人近い入所者の生活の場となり、またハンセン病医療研究の場でもありました。
それから90年近く、居住者数は300人を切りました。多くの居住者は観葉植物や芝生の栽培などで経済的には自立していますが、高齢化にともなう日常生活の困難は増しています。スンゲイブローの場合、入所者同士の園内結婚・出産は可能でしたが、子どもを育てることは許されず、園内で生まれた子どもたちは養子に出されるのが常でした。近年、高齢化の進む居住者の側と、自分の出自を知らないまま人生を生きてきた第2世代の人々の間から、肉親を求める声があがり、血縁関係の確認作業が進んでいます。60年近くの時を経て親子のつながりを求め合う人々の中からいくつもの人生のドラマが展開し、ハンセン病が残した足跡が波紋を呼び起こしています。
今日、療養所の面積は大幅に縮小されましたが、保存運動のかいもあり、居住者たちの権利は保護され、残る建物の一部は資料館に転換されました。また、市民による支援のもと、スンゲイブローとハンセン病の歴史を保存し、それらを社会や次世代に語り継ぐ試みが始まっています。
笹川保健財団は、スンゲイブローの入所者のライフストーリーの聞き取り、資料館の立ち上げなどに協力をしています。

アグア デ ディオス ーコロンビアー

アグア デ ディオス ーコロンビアー
療養所と一般生活を結ぶ唯一の道だった「嘆きの橋」
アグア デ ディオス ーコロンビアー
アグア デ ディオスの風景

コロンビアの首都ボゴタから68マイルのアグア デ ディオス(神の水)市は、1870年代、ハンセン病の患者たちが迫害をのがれてたどり着いた土地でした。1920年代、近代化を急ぐコロンビア政府が土地を収得し、療養所を建設して厳格な隔離政策を実施しました。療養所は河の対岸にあり、そこに至る唯一の道はつり橋でした。隔離される患者は、この橋の手前で家族と別れ収容されました。その橋は「嘆きの橋」と呼ばれ、アグア デ ディオスのシンボルとして絵画や小説に描かれています。
今日アグア デ ディオス市は人口13000人。市民の多くはハンセン病の回復者やその子孫であり、「コルソハンセン(ハンセンの心)」という回復者組織や「アグア デ ディオス第2世代芸術と文化の会」が組織され、自立・啓発・芸術表現など活発な活動を展開しています。100年を超える歴史的な療養所の建物の一部は、市当局により歴史資料館として公開されているほか、「コルソハンセン」も独自の視点から小さな資料館を設立しています。
第2世代の中には、この地で苦難の人生を生きた人々やその家族の尊厳回復を世界に訴えるために、彼ら・彼女らの記録を制作出版しようという動きもあります。
笹川保健財団はアグア デ ディオスを拠点とする当事者組織「コルソハンセン」の活動に対する支援のほか、第2世代による歴史保存活動なども支援しています。

世界のハンセン病療養所紹介へ

  1. HOME
  2. ハンセン病
  3. ハンセン病の歴史に学ぶ