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重監房資料館見学と草津温泉ウォーキングツアー ‐地域の歴史におけるハンセン病を学ぶ2日間(11/2・3)‐ 開催報告

草津温泉・湯畑にて

笹川保健財団は、本年8月に全国の大学生・大学生院を対象に「国立療養所長島愛生園宿泊体験ツアー ハンセン病の歴史と共生社会への学び」を開催しました。
ささへるジャーナル ハンセン病療養所に泊まり、偏見と差別の歴史に触れた3日間。学生たちは何を感じたのか(別タブで開く)

開催後も参加学生と情報交換を繰り返す中、重監房資料館(群馬県吾妻郡草津町)が毎年開催しているウォーキングツアーが話題になりました。
重監房資料館 2025年ウォーキングツアー(本年度は終了しました)(外部リンク)

そこで、当財団は興味ある学生のためのウォーキングツアー開催を重監房資料館に打診したところ、同館部長(学芸員)の黒尾和久さんと学芸員の鎌田麻希さんから快諾いただき、11月2日・3日の日程で開催しました。以下ではツアーで訪れた場所の一部を歴史的背景を含めてご紹介し、最後に参加学生6名の感想を掲載します。

1日目:草津温泉を体感
草津温泉(群馬県吾妻郡草津町)は、毎分2,300リットル以上の日本一の湧出量を誇り、第39回(2025年度)「にっぽんの温泉100選」(観光経済新聞社)では23年連続第1位を獲得している日本を代表する温泉地です。2024年度には年間観光入込客数401.9万人を記録し、過去最高を更新しました。
古くから、日本の温泉は「病を癒す聖なる湯」として宗教的信仰と深く結びついていました。温泉は単なる療養の場ではなく、社会の周縁に生きる人々-病者や貧しい人々-を受け入れる場でもあったとされます。草津温泉は日本有数の強酸性硫黄泉を有する「万病に効く湯」、なかでも皮膚疾患に対する効能が高いとされ、明治時代初期にはそのように積極的な発信もされていました。ハンセン病患者も入浴していた草津温泉。それは遠い過去の話ではなく、1941(昭和16)年までは草津温泉内の「湯之沢」では日常の風景でした。

西の河原源泉の足湯を楽しむ参加者
ライトアップされた共同浴場の一つ「地蔵の湯」

今回のツアー開催にあたり、重監房資料館からは「熱い草津の湯を体感したら、ツアーの解析度が上がります」との助言があり、65度の源泉が引湯されている民宿に宿泊。かけ湯を足に2・3回するだけで肌は赤くなり、足だけ湯舟に入れてみるも、肌の奥まで刺すような熱さで10秒も耐えられません。相当量の水で薄めることで、ようやく入浴できるようになりました。源泉を薄めることなくその効能を最大限享受したいとの願いから、「湯もみ」(木板で源泉を混ぜて冷ます行為。「草津よいとこ 一度はおいで〜」の歌で有名)や「合わせ湯」(温泉成分を水で薄めることなく、複数の浴槽を源泉が移動することで自然冷却して温度の異なる源泉に入浴できる方法)が草津温泉の入浴文化になったことを体感するとともに、治療薬のなかった時代にハンセン病患者がどのような思いで入湯していたかを想像するヒントを得る体験となりました。

2日目:ツアー当日
今回のツアーでは、草津温泉中心部のバスターミナルから草津町内を東へ約4キロ歩き重監房資料館に至ることで、明治時代から昭和時代に実際にハンセン病患者がたどった足跡を巡ります。当日の最高気温は5℃。時折雪まじりの雨が降る中、重監房資料館の黒尾さん、鎌田さんと合流し二人のアテンドによりツアーがスタート。

(光泉寺)
草津温泉の西の高台には、奈良時代に行基菩薩が旅の途中に湯が湧くのを見つけ、薬師如来を安置したと伝わる光泉寺があります。寺の下には白旗と湯畑の源泉があり、薬師信仰と湯治文化の密接な関連性を地理的に想像できます。
また、敷地内には村越化石の句碑があり、裏面には昭和16年に草津町に「移住」と刻まれています。

バスターミナル前の案内板。重監房資料館や栗生楽泉園の記載はない

【村越化石】
1922年、現在の静岡県藤枝市生まれ。16歳でハンセン病を発病し、1941年に結婚した妻とともに国立療養所栗生楽泉園に入所。療養所で先輩俳人に俳句を勧められたことから句作を始め、戦後のプロミン治療で病勢が鎮静化したのちも、失明など重い後遺症を抱えながら俳句に生涯を捧げる。視覚を失っても“内なる視界”で自然と人生を詠み続けた姿勢は高く評価され、角川俳句賞、蛇笏賞、詩歌文学館賞などを受賞。1991年、紫綬褒章を受章。晩年には藤枝市に句碑が建立され、2002年には約60年ぶりに故郷へ里帰りを果たす。2014年、91歳で逝去。

真言宗豊山派草津山光泉寺
村越化石句碑 松虫草今生や師と吹かれゆく

(湯畑源泉周辺)
草津温泉のランドマーク「湯畑」ですが、これは数多くある草津温泉の源泉の一つです。古来、草津温泉には多くの歴史上の人物も訪れたという伝承が残る一方、ハンセン病患者を含むあらゆる者が同じ湯につかる「病健混浴」が草津温泉の入浴文化として成立しました。

湯畑源泉の湯は、湯滝として流れ落ち周辺の宿等に引き込まれていますが、一カ所だけ塞がれた口があります。これは栗生楽泉園に送られている引湯桝です。約4キロ東にある楽泉園の共同浴場では、ここから引かれた湯畑源泉に入浴することができます。しかも、その入浴方法は今でも混浴とのことです。

湯畑源泉
栗生楽泉園への引湯桝(赤矢印)。7本ある湯樋のうち6本は草津町の管理だが、写真手前の1本は楽泉園。この樋は町とは別に楽泉園が定期的に湯花除去を行っている
栗生楽泉園の引湯管が通るマンホール。中央に楽泉園のロゴマークが記されている

江戸時代の草津温泉は幕府直轄地(天領)で、湯本三家という有力家が代々「湯守」として温泉経営を担いつつ源泉管理、湯銭徴収、湯宿監督、入湯規定の制定など温泉街の行政権をも掌握していました。
しかしながら、大政奉還を経て元号が明治へと改まった翌年の1869(明治2)年4月7日、草津の温泉街は失火を原因とする大火により焼き尽くされてしまいます。湯本三家をはじめ、多くの旅館経営者は財産を処分して復興資金を捻出しますが、これを機に外部資本が草津温泉の経営に参入するようになり温泉宿等の経営者が入れ替わります。その復興策の一つとして、草津温泉は様々な病気、とりわけハンセン病に効果があると宣伝され、これを聞いた患者が再び草津に集まるようになると、新時代の観光客や湯治客は患者と同じ湯に入る「病健混浴」を忌避するようになります。

湯本三家に由来する現存の旅館前で草津大火を説明する黒尾部長

(ハンセン病患者自由療養地区・旧「湯之沢」)
1886(明治19)年には「草津温泉改良会」が発足し、草津の発展のためにハンセン病患者の居住入浴地域を温泉中心部から東の「湯之沢」に分離する計画が示されます。これを聞いたハンセン病患者は、役場に押しかけ激しく抗議したと伝わります。当時の湯之沢は、「沢」というより「谷」だったのが実情で、なおかつ中央を流れる湯川には投棄された無縁仏や塵芥・汚物が流れ着く、極めて不衛生な地でもあったからです。

旧「湯之沢」にある日帰り温泉施設・大滝乃湯。「合わせ湯」が楽しめる。当日は連休中ということもあり、駐車場は満車

翌年の1887(明治20)年、草津温泉内のハンセン病患者は一般住民と同等の権利を与えること、由緒ある「御座の湯」の称号利用を許可することを条件に、湯之沢への移転を承諾。ここにハンセン病患者による自由療養地区「湯之沢」が成立しました。
湯之沢の出現はハンセン病患者の地理的排除が具体化した例ではありましたが、患者は公式に与えられた居住権と温泉治療を受ける権利を最大限利用しながら旅館や商店、薬屋等を経営します。そして、それらで働く患者も湯之沢に集まり、自立したハンセン病患者コミュニティの建設に力を注ぎます。1902(明治35)年には草津町内の一行政区・第5区「湯之沢区」となり、区長や町会議員も選出されました。1920(大正9)年の湯之沢区には152世帯523名が、最盛期の1930(昭和5)年には221世帯803人もの住民が居住していました。

湯ノ沢橋と記された橋名板。この地が旧湯之沢であることを示す唯一の証拠

(湯之沢区の解体と栗生楽泉園の開設)
1907(明治40)年に公布された法律第11号「癩予防に関する件」は、身寄りや資力のないハンセン病患者を隔離の対象としていましたが、国は1931(昭和6)年にこれを「癩予防法」へと改正し、すべての患者を隔離の対象としました。この法の制定を見込み、1930(昭和5)年に開設されたのが、本年8月に宿泊研修を実施した国立第1号のハンセン病療養所・長島愛生園です。そして、1932(昭和7)年に国立第2号のハンセン病療養所として開設されたのが栗生楽泉園ですが、楽泉園は愛生園とは異なり、国は湯之沢区の移転先と見込んで開設しました。
日中戦争が勃発した1937(昭和12)年以降には、ハンセン病を「国辱」、患者を「非国民」とみなす時代の傾向が強まり、湯之沢の存在も追い込まれていきます。1941(昭和16)年3月、群馬県は警察官を主たるメンバーとする栗生楽泉園への湯之沢移転に関する交渉委員を草津に派遣し、事前告知なく湯之沢区の患者と交渉を開始。群馬県からは1年以内の楽泉園への移転が告げられたためこれに憤慨する患者がいた一方、楽泉園への入所の覚悟を決める者も多くなりました。そして5月7日には群馬県警本部長が現地入りし、湯之沢の移転命令を発出。県と湯之沢の人々は、1942(昭和17)年12月中にハンセン病患者は国立のハンセン病療養所に入所し、湯之沢の移転を完了することを約した覚書を取り交わしました(ただし、実際には湯之沢の全ての患者が栗生楽泉園に入所したわけではありません)。
5月18日に湯之沢の解散式が行われたことを同日報じた地元紙「上毛新聞」の四段組み記事の小見出しは、次のとおりでした。
「草津よいとこ / 健康療養地に更生 / けふ解散式 / 患者は各療養所へ」

雪が降る中、国道292号線を栗生楽泉園に向けて東に歩く。今は舗装されているが、未舗装だった戦前の昭和時代に永住の地と思っていた湯之沢から栗生楽泉園へ、家財道具はもちろん建物も解体して運搬・移動したハンセン病患者の心境はいかばかりであったか
国立療養所栗生楽泉園正門前にて
栗生楽泉園旧保育所跡地。栗生楽泉園に収容されたハンセン病患者を親にもつ未感染児童の養育施設があった場所だが、今は熊笹に覆われて当時の痕跡はない。らい予防法によるハンセン病患者の隔離政策は、ここで生活した子ども達にも「人生被害」を与えた

(重監房跡)
重監房は、1938(昭和13)年に栗生楽泉園の敷地内に建設された「特別病室」の通称です。戦後のGHQ改革の目にも止まらず、1947(昭和22)年に国会調査団が現地を視察したことにより社会の白日の下にさらされ、廃止されました。
全国のハンセン病療養所には監房や監禁室という懲罰施設があり、療養所の所長には懲戒検束権が与えられていました。
【懲戒検束権(ちょうかいけんそくけん)】
1916(大正5)年の内務省令第6号「患者懲戒・検束ニ関スル施行細則」(通称、懲戒検束規定)により、当時の公立ハンセン病療養所長に与えられた権限。所長は、療養所内の秩序維持の名目で逃走や賭け事をした入所者を裁判所の令状や審査なしに所内の施設に収監することができた。1931(昭和6)年には「癩予防法」改正に先んじて国立療養所の所長にもこの権限を与える「国立癩療養所患者懲戒検束規定」が認可されている。

1936(昭和11)年8月、岡山県の長島愛生園で「長島事件」が勃発します。これは、悪化の一途をたどっていた処遇の改善を求めて、入所者が課せられていた作業をストライキしたものです。愛生園入所者は園内の光ヶ丘に集まり、「恵の鐘」を乱打して抗議の意を表します。
事件は岡山県警特高課長の介入もあり一応の終結をみましたが、10月には全国の療養所長が会議を開催して「長島事件」の顛末を共有し、「不良患者」を収監する特殊収容所の設置と患者の処罰の徹底が討議されました。これが各療養所内の既存の監房よりも懲罰度合が重い「重監房」が楽泉園敷地内に設置された契機とされています。
2003(平成15)年、栗生楽泉園入所者の谺(こだま)雄二さんを中心に「重監房の復元を求める会」が結成され、全国から10万筆を超える署名が集まります。これを受けて、厚生労働省が所掌するハンセン病問題を協議する場では重監房の再現を最優先課題とし、再現に向けた調査の一環として重監房跡の発掘調査が行われます。結果、建物構造や収監された患者の処遇が分かる貴重な遺物が数多く発掘され、2014(平成26)年4月30日、これらの知見を活かした重監房の一部再現を含む重監房資料館が開館しました。

【谺雄二】
1932年、東京生まれ。7歳でハンセン病を発病し、1940年代前半に国立療養所多磨全生園に入所。1951年に栗生楽泉園に転園して以降、生涯を過ごす。1950年代後半から60年代に療養所生活の中で詩作を開始。1962年、第一詩集『鬼の顔』を刊行し、詩・随筆・証言などの著作を継続的に発表する。1999年に「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」の原告として国を提訴。2001年には原告組織「ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会」(全原協)の初代会長に就任する。2003年以降は重監房の再現を訴え続け、同資料館が開館した12日後の2014年5月11日に82歳で逝去。

自らもその発掘調査に従事した重監房跡で説明する黒尾部長。遺存するコンクリート基礎とその周辺には保存処置が施されているが、永久に現状を維持できるわけではないという課題を共有
8月に訪れた長島愛生園「恵の鐘」。「長島事件」を象徴する場所である。ハンセン病療養所の歴史には療養所を越えたつながりがあることを実感

栗生楽泉園歴史館では、干川直康学芸員から栗生楽泉園の歴史と入所者の暮らしに加えて、湯之沢から楽泉園への移転の歴史の説明を受けました。かつて草津から湯を引き込んだ赤松の引湯管(当時主流の鉄管では強酸性の草津の湯を引湯できなかった)の実物展示も見学しました。

干川学芸員による説明
栗生楽泉園納骨堂

(重監房資料館)
重監房が運用されていた10年弱の期間中に、全国から「入室」と称され収監された患者の延べ人数は93名。うち、23名は収監を原因として亡くなったとされます。真冬にはマイナス20度になることもある地で亡くなった患者の主な死因は凍死で、その亡骸を独房の外に搬出する作業は栗生楽泉園の入所者に課せられていました。権力者は直接手を下さないという運用手法からも、重監房が「日本のアウシュビッツ」とも呼ばれる理由が分かります。
参加者は、導入映像を視聴した後、鎌田学芸員から実際の再現した重監房の説明を受けた後、腰をかがめて独房に入ります。

(注)独房への入室は、重監房資料館が主催するツアー時とみとなります。通常は立ち入り禁止で、独房外からの見学となります。

再現した重監房の外壁入口。「特別病室」と記されている
再現した重監房の独房入口。鎌田学芸員から説明を受けて「入室」

独房内には間仕切りはもちろん、蓋すらないトイレが便槽むき出しで再現されていました。
「独房内で再現できていないことが一つあります。それは、ニオイです」という鎌田学芸員の説明が、重監房の非人間的な空間を一層リアルにしました。

再現された重監房独房の内部。館内照明がある時の内部の様子
再現された重監房独房の内部。館内照明が落とされた内部の様子。採光窓がかすかな明かりを取り込むが、手元は何も見えない
(注)独房への入室は、重監房資料館が主催するツアー時のみとなります。通常は立ち入り禁止で、独房外からの見学となります。

独房から「退室」した後には、これまでの重監房跡発掘調査から出土した遺物や資料を一堂に展示した企画展「再論:重監房跡の発掘調査」を見学。独房まで三重に施錠されていたことを推定させる保存処理された南京錠や木骨モルタルの外壁、トイレ箇所から発掘された梅干しのタネなどの貴重な資料を見学しました。
企画展については、以下の記事をご覧ください。
ささへるジャーナル ハンセン病患者を苦しめた「重監房」の事実。歴史的な発掘調査資料を通して考える「人権」とは何か(別タブで開く)

開催中の企画展入口サイン
ツアーを終えて重監房資料館玄関にて

(参加学生の感想)
現在では、本人の意思のもと病を抱えながらも働くことは主流になりつつあるが、草津温泉ではハンセン病を患いながらも旅館で働かれていた方も、栗生楽泉園に収容された後には仕事を辞めざるを得なかったということを学んだ。病を抱えながらも仕事をするという患者本人たちの意志や自由を奪ったことは、許されるべきではない人権の軽視である。(学部生)

大学で医療人類学を学んでおり、今回の重監房資料館ツアーを受けて授業内容がより深く理解できた。ハンセン病は「社会的な逸脱」と見なされていた人々が「病気」と定義され、医療モデルへと移行した「医療化」の典型例であると改めて実感した。医療化には治療法確立という利点がある一方で、差別や偏見、そして行き過ぎた隔離政策という深刻な欠点を伴った。ツアーで見た療養所や重監房跡は、差別の象徴である。この歴史から教訓を得て、感染症対策と人権は対立するものではなく両立させるべきだと考えた。医療化による差別的な弊害をなくすためには、行き過ぎた社会政策を最小限にし、全ての患者が尊厳を持ってその人らしい生活を送ることができる社会支援に繋げる必要がある。大学での学びとツアーの体験を融合させ、私自身ができることをこれからも考え続けたい。(学部生)

重監房資料館では実物の展示によってその現実をより鮮明に感じることができた。とくに、壁の落書きに使われたという鉛筆に目が止まった。重監房の環境は、自分の内側で処理しきれないほど辛く苦しかったのだろう。また、ハンセン病患者に差別的な行為をした人々の多くは、こうした苦しみを実際にはよく知らなかったのではないかとも思った。一人の差別行動は小さく見えても、積み重なれば大きな結果になる。その結果を目の当たりにしたとき、自らの行動が生み出した影響の大きさに向き合えない人もいるのではないだろうか。自分の行動に責任を持つこと-当たり前のようで、過去も現在もできない人がいるという現実を改めて感じた。(学部生)

8月の長島愛生園宿泊体験ツアーでは、長島と本土を繋ぐ橋の名前を「人権」ではなく「人間」回復の橋とした想いの重さに衝撃を受けたことが最も印象に残ったが、草津のツアーを経て手に取った『風雪の紋‐栗生楽泉園患者50年史』にも「人間」回復の言葉が記載されているのを見た時は驚いた。言い表せない想いが込められているとは思うが、いずれの入所者自治会でもこの言葉を選んだ経緯を改めて学びたい。一方で、自治会のメンバーの力強さについても愛生園・楽泉園ともに強く感じた。自らの権利を勝ち取るために動いた人々の強さは一体どこから湧いてくるのだろうか。当時の時代背景と照らし合わせながら再考していきたい。(大学院生)

今回の見学で最も印象に残っている場所は旧保育所跡地だ。ここには未感染児童のための保育所があった。未感染児童は「隔離」と「世間」の狭間にいる存在だと感じた。今では草むらしかないこの場所に唯一無二の思い出を抱えて、でもそれを誰にも明かすことなく生きている人が、同じ社会のどこかにいる。この事実をどう受け止めたらよいのだろうか。「隔離」されていた療養所内の人たちのことを考える時にはない種類の複雑さがそこにはある。(学部生)

発掘調査で枕に使われていたもみ殻が出土し、らい菌のDNAが検出されたことは、ハンセン病患者が収容されていた重監房の存在を現実のものとして位置付ける、動かぬ証拠の発見である。また、かつての重監房周辺は木々に覆われ鬱蒼としていたとの証言については、年輪解析によりこれらは戦後に植えられた樹木と分かったという。ハンセン病問題に関して、当事者の語りを聞き、その声を継承していくことが最も大切であることに変わりはないが、考古学や自然科学の研究もハンセン病問題を風化させないために、大きな役割を果たすことを実感した。(学部生)

(財団担当者より)
草津温泉とハンセン病‐今回のツアーで、参加者は地図を見たり温泉に入っただけでは分からない両者の密接な関係史を五感で感じることができました。
「病健混浴」から湯之沢、そして栗生楽泉園への移転は、明治時代以降の資本主義の発展とハンセン病に対する誤った「恐ろしい伝染病」という認識の広がりが、軍国主義化という時代背景にけん引されながらハンセン病患者を徐々に周辺地へ排除したものでした。そして、ハンセン病患者の生命すら排除しようとしたのが重監房です。
しかしながら湯畑から最東端の栗生楽泉園では、今でも「病健混浴」の共存理念が生き続けています。排除された人々の歴史や営みにこそインクルーシブな社会に向けた、未来へのヒントがありそうです。

笹川保健財団では、引き続き大学生等を対象とした国内ハンセン病療養所をフィールドとした研修会を開催し、ハンセン病問題の解決を目指すとともに、ハンセン病問題を契機としてより幅広い視野から誰もが住みよい社会の構築に寄与する人材の育成に取り組みます。研修会の開催が決まりましたら、募集案内を当財団ホームページ等に随時掲載していきます。ご期待ください。