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現代アートで紡ぐハンセン病への偏見・差別の記憶。香川県大島で瀬戸内国際芸術祭を開く意義

大島に展示されたハンセン病にまつわる現代アート作品の数々

取材:ささへるジャーナル編集部

瀬戸内の島々を舞台に、3年に1度開催される現代アートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」(外部リンク)。約100日間にわたる開催期間中には約100万人の人々が国内外から訪れる、日本を代表する国際的な芸術祭です。

その会場の1つとなる香川県大島には、ハンセン病回復者が暮らす国立療養所「大島青松園(おおしませいしょうえん)」があります。大島は、ハンセン病の歴史を伝える重要な場所として、2010年の第1回から芸術祭の会場となっています。ここでは、療養所や入所者にまつわる現代アート作品を通じ、ハンセン病問題や人間の尊厳について考えることができます。

今回は、瀬戸内国際芸術祭2025の秋会期に大島を訪れ、香川県瀬戸内国際芸術祭推進課・広報の出口真生(でぐち・まき)さん、公式サポーター「こえび隊」(外部リンク)を運営するNPO法人瀬戸内こえびネットワークの笹川尚子(ささかわ・しょうこ)さんに大島会場で展示されている作品や、その背景にある作家の思いについて解説してもらいました。

大島に到着し、船から降り立つ、瀬戸内国際芸術祭の来場者たち

支え合って生きてきた入所者の「強さ」に感銘を受けて

枝と杖(支えあうことのモニュメント)/ニキータ・カダン

――「枝と杖(支えあうことのモニュメント)」はどんな作品でしょうか。

笹川さん(以下、敬称略):ウクライナ・キーウ出身のアーティスト、ニキータ・カダンさんによる彫刻作品です。足、手、そして細い枝という3つの要素で構成されています。足と手の部分は、大島青松園社会交流会館(外部リンク)に展示されている木製の義足や、入所者の方々の手をもとにしたレプリカを3Dスキャンし、鋳造して作られています。

キーウはロシアとの戦争で大きな被害を受けた地域です。カダンさんは初めて瀬戸内国際芸術祭に参加するにあたり、さまざまな島を巡るなかで大島を訪れました。そこで大島青松園の歴史を知り、資料展示を見て、入所者の方々が支え合いながら生きてこられたことに深く感銘を受けたそうです。その体験から、この作品の構想が生まれました。

こえび隊として、作品や大島の歴史を丁寧に聞かせてくれた笹川さん

笹川:ただ、芸術祭の総合ディレクターである北川(きたがわ)フラムは、入所者の方の手や足をそのままモチーフとして表現することが、かえって偏見や差別を助長してしまうのではないかという不安や迷いがありました。

そこで、大島青松園の自治会(※)の会長である森和男(もり・かずお)さんと、長年芸術祭に関わってこられた副会長の野村宏(のむら・ひろし)さんに、オンラインでカダンさんが作品への思いを直接伝える時間を設けたんです。その際、森さん、野村さんは、「カダンさんが戦争を経験し、カダンさんの仲間にも私たちと同じような手や足に障害のある人たちがいただろう」とおっしゃっていました。お二人には、そのようにカダンさんの思いに強く共感され、作品の設置が受け入れられたという経緯があります。どこに設置するかもお二人と話し合いながら決めたんですよ。

※国立ハンセン病療養所の入所者で構成された自治会組織

――手と足そのものは細いですが、力強さも感じます。

同作品は、入所者の方の手や義肢をもとに作られた
大島青松園の社会交流会館で元となった義足を見ることができる

作家が交流を続けている同郷の入所者の人生を辿る

「Nさんの人生・大島七十年」-木製便器の部屋-/作:田島征三

――「『Nさんの人生・大島七十年』-木製便器の部屋-」は、胸に迫る作品ですね。

笹川:こちらは絵本作家の田島征三(たしま・せいぞう)さんの作品です。先ほどお話しした入所者のおひとりであり、自治会の副会長でもある野村さんの人生が、元独身寮を使って立体的な絵巻物として表現されています。

5つの部屋には、お母さんとの別れや、強制労働、結婚、中絶、そして病気が治っても島を出ることが許されなかった怒りなど、野村さんが療養所で過ごした長い年月の思いが刻み込まれています。庭の畑も作品の一部で、実際にここで野村さんが野菜を育てているんですよ。

田島さんは幼少期から高校生まで高知県で過ごし、野村さんは高知県のご出身で、世代も近いそうです。二人は芸術祭を通じて出会い、大島の歴史やハンセン病のことなど、時間をかけて語り合われました。その対話の積み重ねから生まれたこの作品には、ハンセン病問題が過去の出来事ではなく、今も社会の中に続いているという現実を伝えたいという、田島さんの思いが込められています。

出口さん(以下、敬称略):2015年から高松市が開催している子ども向けのサマースクールでは、小学1年生から中学3年生までを対象に、ハンセン病の歴史を学びながら、アートや自然に触れる体験を提供しています。

企画や運営はこえび隊が担っていて、入所者の方々との交流のほか、野村さんが育てたトマトを食べたりもするんですよ。ここ数年は野村さんがサマースクールのためにスイカを作ってくれていて、子どもたちも楽しみにしています。

――サマースクールに参加した子どもたちは、ハンセン病についてどのような反応を示すのでしょう?

笹川:「Nさんの人生」をはじめ、大島にある作品を通じて、子どもたちは少しずつ理解を深めています。サマースクールでは、1日目に小学5年生以上の子どもたち、2日目に小学1~4年生が参加する仕組みになっています。

高学年の子どもたちは1日かけてハンセン病について学び、学んだ内容を翌日、自分の言葉で低学年の子どもたちに伝えます。 大島青松園をどのルートで巡るのがよいか、どうやって伝えたら分かりやすいか、みんなで一緒に考えながらプランを立てるので、低学年の子どもたちも自然と理解が進みます。

大島青松園の自治会の副会長である野村さんの人生をかたちにした立体絵巻物
屋外には、作品であり、いまも野村さんが野菜を育てる畑が広がる

入所者が遺した写真、自助具から放たれる体温に触れる

稀有の触手/作:やさしい美術プロジェクト

笹川:「稀有の触手(けうのしょくしゅ)」は、美術家の髙橋伸行(たかはし・のぶゆき)さんがディレクターを務める「やさしい美術プロジェクト」の作品です。やさしい美術プロジェクトは、これまでに病院などの医療施設を舞台に、アートを介して地域と患者さんをつなぐ活動を行ってきました。

髙橋さんは瀬戸内国際芸術祭が始まる前、総合ディレクターである北川フラムの依頼を受けて、2007年から大島に通い続け、入所者の方々と交流を深めながら活動をしてこられました。

大島が芸術祭に参加することが決まった際、入所者の方々は「この島には見てもらうものなんて何もないのに」とお話されていたそうです。でも髙橋さんは、入所者の方々が使っていた生活道具――例えば、ボタンをかけるときに使う自助具や「大島箪笥」(※)など、日常的な道具に価値を見出しました。その結果、髙橋さんのもとには、さまざまな日用品や遺品が集まったそうです。

ここでは、入所者でつくる「カメラ倶楽部」の最後の会員である脇林清(わきばやし・きよし)さんを髙橋さんが撮影した写真を中心に展示しています。また、カメラ倶楽部の創設者で、2010年に亡くなられた鳥栖喬(とす・たかし)さんのフィルムをプリントした写真も展示されています。

お二人とも後遺症があったため、脇林さんが自助具を使って手を支えながら撮影している姿や、鳥栖さんが実際に使っていた自助具のかけらも展示されています。

※入所者の手づくりの小さな箪笥。寮の1人分の生活スペースが約2畳しかなかったため、生活に必要なものは全てこの小さな箪笥の中に収納されていた

自助具を使いながら撮影し、たくさんの写真を遺した脇林さん
髙橋さんのもとに集まった入所者の方の自助具が作品として展示されている

入所者たちが切り開いた道で、隔離された人々の暮らしに想いを馳せる

リングワンデルング/作:鴻池朋子

出口:「リングワンデルング(相愛の道)」は、目に見える物体としての作品ではなく、場所そのものが作品になっています。

もともとこの場所には、1933年に若い入所者の方たちが掘った「相愛の道」と呼ばれる約1.5キロメートルの散策路がありました。時代とともに埋もれてしまっていたのですが、2019年に芸術家の鴻池朋子(こうのいけ・ともこ)さんが再び開通させました。延べ約250人の入所者がかかわったというこの道は、現在も鴻池さんが継続的に開拓・整備を進めています。

2022年には、戦前、入所者が島から逃げ出すこともあったというエピソードから着想を得て、生き延びるための抜け道として作った石段が設置され、2025年には頂上に続く道を復活させました。先ほど「稀有の触手」で写真が展示されていた脇林清さんが撮影に使っていたハシゴもそのまま残して展示しています。脇林さんは実際にこの場所にハシゴを持ち込み、トンビなどの撮影をしていたそうです。

鴻池さんは“行動展示”と題して、作品の整備風景をそのまま見せることも行っていて、作業の途中で来場者と交流することもあるそうです。 2025年の秋会期には、かつて使われていた小さな農作業小屋を改装した指芝居小屋で、指人形劇『リングワンデルングの謎』も開催されました。

――山道の途中、ところどころに、入所者の方の言葉があってドキッとします。

出口:美しい景色が広がっていますが、すごく考えさせられますよね。戦後、大島青松園には、多いときで700人以上の方が生活していました。結婚しても個室は与えられず、12畳の部屋に4組、一組あたり3畳ほどのスペースしかありませんでした。

入所者の方々は、ひとりで過ごしたいときや、パートナーと二人きりになるために、この道を歩いていたそうです。

山道の途中には、入所者たちの暮らしぶりが、本人たちの言葉で綴られている
山道からは、美しい瀬戸内海の島々の風景が広がる。この場所から抜け出すことができない入所者たちは何を思ったか

入所者や看護師などから聞き取った話を、指人形で語り継ぐ

物語るテーブルランナーと指人形 in 大島青松園/作:鴻池朋子

出口:「物語るテーブルランナー」は、鴻池さんが大島青松園の入所者や職員の方々から伺ったお話をもとに絵を描き起こし、全国にいる手芸チームの方々が手仕事でランチョンマットに仕立てた作品です。

今年からは、語り部として、先ほどお話しした人形劇に登場した指人形たちが加わりました。

――脇林さんのお話をもとにした作品もありますね。

出口:入所者の方々の思い出や、看護師さん、介護職員さんたちの率直な言葉を通して、大島での暮らしが浮かんできます。

大島青松園の看護部長から聞き取った話をランチョンマットに再現した作品

作品を観賞しながら「大島」を味わう

{つながりの家}カフェ・シヨル/作:やさしい美術プロジェクト。Photo: Shintaro Miyawaki。画像提供:瀬戸内国際芸術祭

出口:「物語るテーブルランナーと指人形 in 大島青松園」が展示されているのが、やさしい美術プロジェクトがプロデュースする「{つながりの家}カフェ・シヨル」です。

会期中の土・日・祝日には、こえび隊がカフェを運営し、大島で採れた野菜や果物を使ったお菓子やドリンクを提供しています。器には大島の土を使って焼き上げた「大島焼」を使っていて、2025年には新たな「大島焼」が加わりました。

――大島に訪れ、ハンセン病に関連する作品に触れた方からはどんな反響がありますか?

出口:残念ながら、私自身が大島を訪れた方から直接感想を伺う機会があまりなくて……。

ただ、そもそも瀬戸内国際芸術祭の実行委員会は、県庁の職員で構成されているんですね。部署の異動で担当になるので、アートに関心のある人もそうでない人も関わることになります。だから、実行委員になって初めて大島を訪れるという人も少なくありません。

そういう意味では、一般のお客さまと私たちは同じような立場ではないかなと思います。

大島に展示されている作品を観たり、ハンセン病の歴史を知ったりすることで、苦しくなる人もいれば、通ううちに大好きになって、大島のこえび隊に参加するようになる人もいます。感じ方や受け取るものは人それぞれですが、みんな何かしら心に残るものがあるのだろうなと感じています。

私自身も、実行委員になる前は芸術祭に個人的に参加したことはあっても、大島を訪れたことはありませんでした。でも今は、本当に大島が大好きで、実行委員を離れたとしてもまた来るだろうなと思っています。

自身の大島に対する想いを語る瀬戸内国際芸術祭実行委員会の出口さん

――出口さんご自身は、大島に対する印象がどう変化したのでしょう?

出口:子どもの頃は祖父母の世代はまだ大島への忌避意識があり、大島はむしろ触れてはいけない場所として教えられてきたこともあって、どこか遠い存在でした。初めて訪れたときに「Nさんの人生」を観て、ショックを受けたのを覚えています。

でも、2回目に訪れたときに野村さんと直接お話したら、印象が全く変わったんです。野村さんは“普通のおじいちゃん”という感じで、結婚していまは幸せに、穏やかに暮らしているという話を聞きました。

そのときに、ハンセン病の歴史を扱うことは、必ずしも暗い側面だけを見せるものではないのかもしれないと思うようになって。それからは、大島のことが大好きになりました。

――瀬戸内国際芸術祭が大島で行われる意義について、どのようにお考えですか。

出口:総合ディレクターの北川フラムは、瀬戸内で芸術祭を行うにあたって、「大島」と「豊島」は絶対に外せない場所だと考えていました。その背景には、豊島では日本最大級の産業廃棄物事件(※)が起きたこと、そして大島には100年以上の歴史を有するハンセン病療養所「大島青松園」があり、偏見や差別の歴史が存在するという事実があります。

つまり近代の発展のなかで、社会が「都合の悪いもの」や「見えないようにしたい問題」を周縁へ押し込めてきたという歴史に対する、強い問題意識があるんです。

また、瀬戸内国際芸術祭は観光イベントとして見られがちですが、実は私たちが所属する推進課は観光部ではなく「政策部」に所属しています。このことからも分かるように、芸術祭は「地域振興」という政策の一環として行われており、アートの力で地域を元気にし、地域の課題を解決していくことが目的なんです。

※1970年代後半から1990年まで、香川県土庄町豊島に約91万トン以上の産業廃棄物が不法投棄された、日本最大級の公害事件のこと

――瀬戸内国際芸術祭を通して、ハンセン病問題に対してどんなことを伝えたいですか?

出口:入所者の方々の希望は、3つあります。1つは、これまで守られてきた医療や生活の環境を、今後も維持してほしいということ。もう1つは、ここで起こった歴史を、風化させずに伝え続けてほしいということ。そして最後に、自分たちがいなくなったあとも、人が島に訪れ、交流が続いてほしいということです。

芸術祭は一時的なイベントではなく、大島と人との関係を広げていく“きっかけ”だと思っています。私たち実行委員をはじめ、こえび隊の活動を通して大島に定期的に足を運ぶ人は明らかに増えています。今後もそれが続けばいいと思っていますし、そうした「関連人口」を少しずつでも増やしていくことが瀬戸内国際芸術祭に求められていることではないかなと思います。

編集後記

「『Nさんの人生・大島七十年』-木製便器の部屋-」の最後の部屋に、田島さんの手書きのメッセージがありました。

 「この国でNさんと同じ70年を生きて、Nさんのことを知らなかった。知ろうともしなかった。Nさんに対してぼくは罪を冒し続けている」

現在、大島青松園をはじめ、各地のハンセン病療養所で暮らしている入所者の方々は、両親や祖父母と同じ世代です。自分自身も同じ時代を生きてきたのに何も知らなかったことに、衝撃を受けると同時に、より深く知りたいという思いが強まりました。

次に瀬戸内国際芸術祭が開催されるのは2028年。また足を運びたいと思います。

撮影:十河英三郎

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