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100人いれば100通りの人生がある——国立療養所「大島青松園 社会交流会館」に聞く、ハンセン病問題を理解するために大切な視点

大島青松園社会交流会館で学芸員としてハンセン病問題の歴史継承に努める都谷さん(右)、丸川さん

取材:ささへるジャーナル編集部
※展示物の写真は、大島青松園の許可のもと撮影しています

瀬戸内海に浮かぶ「大島」は、島のほぼ全域が国立ハンセン病療養所「大島青松園(おおしま せいしょうえん)」であるという、特異な歴史をもつ島です。

1931年(昭和6年)に「癩(らい)予防法」が制定され、国の強制隔離政策が進められました。さらに1930年代から1960年代にかけては「無らい県運動(※)」が盛んに行われ、多い時には700人を超えるハンセン病患者が大島青松園に収容されていたといいます。

※「無らい県運動」は、各県が競ってハンセン病(らい病)患者を見つけ出し、療養所に隔離・強制収容した官民一体の運動のことで、全国的に進められた

かつて孤島だった大島は、2010年に始まり、いまや国際的な芸術祭に成長した「瀬戸内国際芸術祭」(外部リンク)の会場の1つでもあります。

今回は、大島の歴史を伝える「大島青松園 社会交流会館」(外部リンク)の学芸員・都谷禎子(つだに・さちこ)さんと丸川伸子(まるかわ・のぶこ)さんに、大島青松園の歴史、学芸員として伝えたい思い、芸術祭を通じて起きた変化などについてお話を伺いました。

大島青松園の入り口に立つ、瀬戸内国際芸術祭のガイドマップ

ハンセン病問題の記憶を無くさない——「大島青松園」の取り組んできたこと

――大島青松園の設立の経緯や、これまでの歩みについて教えてください。

都谷さん(以下、敬称略):1907年(明治40年)に制定された法律第11号「癩(らい)予防ニ関スル件」(※)とその関連法に基づいて設置が決まり、1909年(明治42年)に設立されました。全国に5カ所つくられた公立療養所の1つで、中国・四国8県連合「第4区療養所」として開所したのが始まりです。

その後、1941(昭和16年)には厚生省に移管され、国立の施設となりました。現在(2025年11月1日時点)、大島青松園には男性17人、女性12人、合わせて29人が生活しています。平均年齢は87.9歳、うち11名が90歳を超えています。

※「癩(らい)予防ニ関スル件」は、日本国内で各地を放浪する「浮浪らい」と呼ばれるハンセン病患者を療養所に隔離収容することを可能にし、社会から見えないように管理するために設けられた制度

大島青松園の歴史について話す都谷さん

――大島青松園は100年以上の歴史がありますが、社会交流会館の学芸員として活動する上で、大切にされていることはどんなことでしょうか?

都谷:ハンセン病がすでに「治る病気」になって久しいにもかかわらず、療養所が今も存在し続けている。そのこと自体が、ある意味ではとても皮肉な現実だと思います。

社会交流会館は、2019年に療養所の創立110周年という節目に合わせて開館しましたが、「110周年」は決して“おめでたい”ことではありません。もっと早い段階で療養所が必要ない環境が整っていれば、入所者の方々にも社会復帰のチャンスがあったはず。いざ高齢になってから「さあ、あなたは自由です」と言われても、難しいですよね。

かつて大島青松園の自治会(※1)の会長を務め、国の強制隔離政策に対する国家賠償訴訟(※2)の原告団をまとめるため、2001年にハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会を設立した曽我野一美(そがの・かずみ)さんも、自治会創立50周年式典の式辞で、「割りきって祝いの日だとも言えない。しかし弔いの日でもない」と複雑な胸の内を語っています。

※1. 国立ハンセン病療養所の入所者で構成された自治組織

※2. 「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」のこと。1998年(平成10年)に、ハンセン病回復者が「らい予防法」は日本国憲法に違反するものであるとして国家賠償を求める裁判を起こし、2001年(平成13年)5月11日に原告の訴えを認める判決が熊本地裁から出された。国は控訴を断念し、この判決が確定

社会交流会館の展示室
展示室では入所者の暮らしぶりがわかる貴重な資料を見ることができる

――ただ、今となっては、ハンセン病の歴史を伝えるために、残さなければならないものだとも思います。

都谷:入所者の皆さんの帰る故郷を失わせてしまったのは、国の政策です。最後の一人まで責任を持つことは言うまでもありませんが、この場所に療養所があったことをきちんと残していかなければ、悲惨なハンセン病問題の歴史はなかったことにされてしまいかねません。

私たちは今まさに、次の世代に向けて引き継ぐために奮闘しているところです。

――入所者の皆さんと、島外の方々との関わり方に変化はありますか?

都谷:1996年に「らい予防法」が廃止になってから、大きな変化があったと聞いています。まず、島の中にあった庵治第二小学校(2018年3月をもって休校)の子どもたちと入所者の方々との交流が始まりました。

2001年の国家賠償訴訟のあと、一段と人権学習が進むようになり、子どもから大人まで多くの人たちが人権学習などで訪れるようになりました。コロナ禍をきっかけに制約が生まれてしまいましたが、2019年までは一度に100人近くもの学校団体を受け入れていたこともありました。

社会交流会館に展示された1958年前後の大島を150分の1サイズで再現したジオラマ

「ハンセン病に対する理解を深めるきっかけに」と芸術祭の開催地に

――2010年からは瀬戸内国際芸術祭の開催地にもなっていますが、どんな経緯があったのですか?

都谷:私が着任したのは2018年、丸川は2025年からなので、直接そのやりとりを見聞きしていたわけではありませんが、瀬戸内国際芸術祭から自治会に参加の打診があったのが始まりだと聞いています。

入所者の方々にはさまざまな思いや葛藤、戸惑いもあり、すぐに判断するのは難しいとして一度は保留になっていたようです。その後、現在の森和男(もり・かずお)自治会長に代わってから、「ハンセン病問題について知ってもらい、偏見や差別をなくす突破口になれば」と受け入れることを決めたそうです。

――実際に何か変化はありましたか?

都谷:過去の来島者の推移を見ると、開催期間中は世界中からたくさんの方が訪れていることが分かります。また、国からの指導(※)に基づき、学校におけるハンセン病に関する教育が推進されたことで、校外学習に取り入れてくださる先生方も増え、つながりも広がってきました。

※参考:文部科学省「ハンセン病に関する教育の更なる推進について(令和3年8月)」(外部リンク)

――私(40代)が子どもの頃は、教科書でハンセン病について触れられていた記憶がほとんどなく、学校で教わる機会もありませんでした。

都谷:そうですよね。私たち自身もそうですし、大島に来てくれる子どもたちの親の多くは、学校でハンセン病について学ぶ機会がなかった世代なんです。

さらにその上の、おじいさん・おばあさん世代になると、ハンセン病患者が偏見や差別を受けていたことを直接知っています。そのため、ハンセン病に対して誤った知識を教えられたり、そのままネガティブなイメージを下の世代に伝えてきた人もいるでしょう。

ですから、子どもたちには「お父さんやお母さんが知らないこともたくさんあると思うので、家に帰ったらここで学んだことをたくさん話してあげてほしい」と伝えています。

――芸術祭の意義については、どのように感じているのでしょうか?

都谷:これまでハンセン病について何も知らなかった方が関心を持つ“入り口”になっていたら嬉しいですね。芸術祭が始まった当初は、ボランティアスタッフ「こえび隊(※)」によるガイドツアーだけが、島を訪れた方への普及の手段でした。

一方で、大島青松園としても、ハンセン病の正しい知識を学んでもらうための工夫や資料を用意しておく必要があると感じていました。社会交流会館ができてからは、ハンセン病や大島青松園の歴史を伝える資料を常時展示できるようになり、その役割を担う責任の重さを感じています。

芸術祭をきっかけに初めてハンセン病や偏見・差別の歴史について知るという方も多く、「知ることができてよかった」「とても大切な活動だと思います」というご感想をいただくと、この仕事をやっていて良かった、と感じます。

※瀬戸内国際芸術祭を支えるボランティアサポーター

――芸術祭にいらっしゃった方々と入所者の方々が交流することはありますか?

都谷:森自治会長や、大島で展示されている作品「『Nさんの人生・大島七十年』-木製便器の部屋-」のモデルにもなっている野村宏(のむら・ひろし)副会長など、一部の入所者さんたちは、来場者との会話を楽しまれることもあるようです。

ただ、過去の開催時には、入所者さんが「後遺症(※)が残っている体をジロジロ見られて嫌だった」と泣きながら訴えてこられたこともありました。療養所の歴史を知らない来場者もいらっしゃいますから、こうしたトラブルがないよう私たちも気を配っておく必要があると感じています。

※ハンセン病が進行すると、らい菌に皮膚や末梢神経が侵されることで感覚障害や運動障害、顔面・手足の変形、皮膚の脆弱化、視力障害などの後遺症が残ることがあった

瀬戸内国際芸術際2025で展示された、入所者・野村宏さんの人生を辿ることができる作品「『Nさんの人生・大島七十年』-木製便器の部屋-」。作:田島征三(たしま・せいぞう)
瀬戸内国際芸術際2025で展示された、目の不自由な人、島で生きた人、現在島で暮らす住人に向けた音のインスタレーション「音(おと)と遠(とお)」。作:梅田哲也(うめだ・てつや)

「ハンセン病元患者」ではなく、ひとりの人として向き合ってほしい

――お二人が学芸員として大島青松園に訪れた方と接する上で、大切にされていることは何でしょう?

丸川さん(以下、敬称略):全国に13カ所あるハンセン病療養所のうち、大島青松園は唯一、船でしか訪れることができません。まずは、島に興味を持ち足を運んでくださった方の、その気持ちを忘れないこと。

そしてもう1つは、森自治会長もよくお話しされることですが、入所者の方々にはそれぞれに違う人生があります。病気の症状も違えば、同じ環境で暮らしていても感じ方や考え方も異なります。ですから、「ハンセン病とはこうだ」と一括りにすることはできません。いろんな方の人生に触れ、この場所で確かに生きてこられた人たちがいたことを知り、何か1つでも持ち帰ってもらえたらという思いで接しています。

大島青松園社会交流会館の学芸員として大切にしていることを語る丸川さん

都谷:丸川がお話したように、大島へは船に乗らなければ来ることができません。そのこと自体が、かつてのハンセン病に対する強制隔離政策を如実に物語っていると思います。島内には今も小さな商店が一軒あるだけなので、入所者さんはちょっとした買い物をするにも船に乗って高松まで行かなければなりません。

また、いまは多くの方が大島へ渡る船に乗るときにワクワクした気分になるかもしれませんが、当時この島に連れてこられた入所者さんたちにとっては片道切符の船旅でした。ここに来たら、家族と離ればなれで生きていかなければならないことを意味していました。

「あなたたちは、船に乗った瞬間から入所者の皆さんの体験を追いかけているんだよ」と子どもたちに伝えると、ハッとした表情を見せることも多いですね。

なかなか終わりが見えない課題ですが、少しずつでも解決に向けて進んでいくことが、入所者の皆さんの願いでもあります。子どもたちには「皆さんが大人になって社会に出るときには、その願いを叶えるサポーターになってください」と伝えています。

――次の世代に伝えたいハンセン病問題の歴史や、現状の課題についてお聞かせください。

丸川:今の若い世代の方たちは、偏見や差別を直接見聞きしていない分、先入観なくハンセン病について受け止めてくれます。入所者さんとの交流の場でも、積極的に質問してくれるんです。

印象に残っているのは、「どんなことでもいいから、なんでも聞いてください」と投げかけたときのこと。ある小学生が「一番好きな食べ物はなんですか?」と尋ねてくれました。入所者さんが「お肉です」と答えたら、「どういうお料理が好きですか?」と続けて。結果、その方は、あまり筋張っていないステーキを、お酒と一緒に食べるのが好きだということが分かりました。(笑)。

そのときの会場は、まるでみんなでお茶をしているような、すごく温かな雰囲気だったんです。大人だと、病気のことやこれまでの辛かった経験を聞かなければ、と思い込んでしまうことが多いですよね。私自身も「こんな質問もありなんだ」と気づかされましたし、こうしたやりとりが理解を広げるヒントになるかもしれないと思いました。

社会交流会館に展示された、強制隔離政策時代に使われていた入所者の義足と補装具
社会交流会館では、強制隔離政策時代に入所者が使っていた自助具などを通して当時の暮らしぶりを学ぶことができる

――「ハンセン病元患者」としてではなく、目の前にいるその人に興味を持ったからこその質問ですね。

都谷:そうですね。知識がある人ほど、「ハンセン病患者=かわいそう」といったイメージにとらわれてしまうこともあるように思いますが、それだけでは一人ひとりの人生に寄り添うことはできません。

療養所で暮らす皆さんは、それぞれに悲喜こもごもがあり、喜びや苦しみを分かち合いながら、誰もが自分らしく生きようと努力されてきました。100人いれば100通りの人生がある。辛さ、苦しみだけでなく、生き抜いてきた強さや、人としての豊かさも伝えていけたらと思います。

社会交流会館では、入所者が手がけた数々の芸術作品も見ることができる

――大島青松園や芸術祭での取り組みを通して、どんな思いを伝えたいですか? また、それをどんな未来につなげていきたいと考えていますか。

都谷:ハンセン病に対しては長い間、間違った知識が広まり、正しいことを知ろうともしない時代が続いてきました。よく「無知や無関心は差別の始まり」といわれますが、まさにその通りだと思います。マザー・テレサの言葉で「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」というものもありますよね。

ハンセン病の歴史を振り返ると、新型コロナウイルスの流行と重なる部分もあると感じます。得体の知れない病気に人々が恐怖を抱き、その結果として偏見や差別が生まれた。私たちは現実に、この状況を体験しました。

ハンセン病はすでに治る病気になり、差別を助長するような法律もなくなりました。だから「なぜ今、学ぶ必要があるの?」と思う人もいるかもしれません。けれども、最近起きた出来事の中にも、私たちが学ぶべきヒントがあったのではないでしょうか。

これから先、また新たな感染症や想定外の出来事が起こるかもしれません。そのときにどう行動するのか――。その糧を、ここでの学びから得てもらえたらと思っています。

そもそも、病気にかかったという理由で偏見や差別が生まれること自体、とても悲しいことです。誰だって、なりたくて病気になるわけではありません。

「偏見や差別はいけない」と言葉では簡単に言えますが、その行為を生み出すのはいつでも人間です。もしかしたら、自分自身も無意識のうちにしてしまうかもしれない。そのことを、忘れないでほしいと思います。

いまを生きる人たちに伝えたい思いを語る都谷さん(右)と丸川さん

編集後記

都谷さんが最後に言われた「偏見や差別をするのは、いつも人間だ」という言葉が胸に刺さりました。ハンセン病にかかわらず、自分が知らないことについて無意識のうちに決めつけたり、「自分とは関係がない」と線を引いてしまっていることが今もあるかもしれません。

大島に滞在中、記事にも登場する自治会長の森さんや副会長の野村さんと偶然お会いすることができました。お二人の温かく、朗らかな笑顔が今も心に残っています。

芸術祭の開催期間以外も、大島青松園内や社会交流会館の見学は可能です(要予約)。決して交通の便がいい場所ではありませんが、ぜひ一度、この場所で生きてこられた方々の歴史や思いに触れてみていただけたらと思います。

撮影:十河英三郎

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