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ハンセン病差別の中で人間らしい生活を取り戻そうとした人々——貴重な資料や「生活道具」から考える人間尊厳

菊池恵楓園で看護師長を務める越猪裕生さん(左)と、歴史館で学芸員を務める木原実咲さん

取材:ささへるジャーナル編集部

1909(明治42)年、「九州七県連合立九州癩療養所」として開設され、1941年(昭和16年)に国立療養所となった菊池恵楓園(きくちけいふうえん)。国内最大規模のハンセン病療養所であり、現在(2026年8月時点)も88人の入所者が暮らしています。

園内にある歴史資料館(外部リンク)では、さまざまな展示を通して、ハンセン病問題の歴史やこの場所で生きる人々の人生を伝えています。

今回は、同館学芸員の木原実咲(きはら・みさき)さんと、菊池恵楓園看護部福祉・人権担当看護師長の越猪裕生(おおい・ゆき)さんにインタビュー。常設展と2027年1月31日(日)まで開催中の企画展示「生活の道具とその記憶」を入り口として、隔離政策の下でも力強く生きた入所者たちの歴史をたどります。

菊池恵楓園の歴史を、五感で知る常設展

――常設展はどのように構成されているのでしょうか。

木原さん(以下、敬称略):展示室ではまず、ガイダンス映像をご覧いただきます。ハンセン病問題の歴史や、繰り返し多くの人の人権を侵害し続けた過ち、今なお続く差別や偏見について紹介する映像で、かつて恵楓園を囲んでいた「隔離の壁」の一部をスクリーンとして活用しています。

隔離の壁は、入所者が逃げ出さないようにするとともに、外側から園内が見えないようにするために建てられたもので、現在は園の北側に400メートルほど残っています。

隔離の壁
展示物の背景にある問題や入所者の物語について話してくれた木原さん

木原: 壁面では、入所者の方が療養所に来てから亡くなるまでの過程を紹介しています。入所時には、医師が書いた診断書と、所管の警察署が作成した送致書(そうちしょ※)を持って入ります。その後、「解剖願(かいぼうねがい)」という同意書への署名を求められました。亡くなった後、自分の体を医学のために提供するという内容です。

骨壺も展示されています。ハンセン病に対する差別や偏見は、本人だけでなく身近な人にも及び、「自分がいると家族に迷惑がかかる」と自ら療養所に来る人も少なくありませんでした。亡くなった後も故郷の墓に入れないケースがあり、園内には火葬場や葬儀のための宗教施設が設けられていました。現在も納骨堂があり、1,300人を超える方々が眠っています。

※「送致書」とは、ハンセン病患者を療養所に強制連行・収容する際に作成・使用された行政文書のこと

解剖願

――入所時に「解剖願」への署名が求められていたことは、とても重く感じられます。

木原:当時は、医療や福祉、障害に対する認識が、今とは大きく異なっていました。過去の認識と、現在の私たちが抱く違和感との間にどのような努力があったのかを知ることは、とても重要だと思います。

西側展示室では、入所者の方々が設立した絵画クラブ「金陽会(きんようかい)」の作品や、写真クラブ、書道クラブの作品、恵楓園から生まれた文芸作品のほか、1951年(昭和26年)から現在まで発行されている自治会機関誌『菊池野(きくちの)』などを展示しています。

入所者が手彫りした見事な木工芸品の数々
自治会機関誌『菊池野』

木原:新館展示室では、ハンセン病問題の歴史や熊本における出来事、菊池恵楓園の歴史について紹介しています。入口近くに展示されている手の彫刻は、恵楓園で長年連れ添ったご夫婦の手の型を取って作ったもので、自由に触れることができます。

療養所では長い間、職員が少なかったため、炊事や洗濯など、生活に必要な仕事を入所者自身が担っていました。こうした仕事は「患者作業」と呼ばれていました。モニターでは、入所した年齢や時期を選ぶと、どのような患者作業を割り当てられ、どのくらいの工賃を受け取っていたのかが分かるようになっています。

また、療養所ができる以前の熊本県におけるハンセン病患者の歴史から、国賠訴訟(らい予防法違憲国家賠償請求訴訟)に至るまでをグラフィック年表で紹介しています。

国賠訴訟では、1998年(平成10年)に、菊池恵楓園と星塚敬愛園(鹿児島県)の入所者13人が原告となり、国の責任を問う裁判を起こしました。熊本地裁で原告側が勝訴し、国も控訴しなかったことで、国は隔離政策の誤りを認め、ハンセン病の元患者への謝罪と賠償を約束しました。

新館の入り口。左手には、入所者夫婦の手を型どった彫刻が展示されている
国賠訴訟の詳細も知ることができる

――13人の方が裁判を起こすには、大きな決断が必要だったのではないでしょうか。

木原:社会から隔離されてはいますが、療養所にいれば生活することはできます。国を訴えることで、ここにいられなくなるのではないか。入所者の中には、そうした不安から「余計なことはしないでくれ」という反対の声が多かったと聞いています。

また、故郷にいる家族からも、「あなたが名前を出したり、顔がテレビに映ったりすると、私たちが患者の家族だと分かってしまう。地域社会にいられなくなるからやめてほしい」と止められた方もいましたが、それでも、立ち上がったのです。

戦後も差別や偏見は続いています。再審請求が今年棄却されたことでニュースにもなった「菊池事件(※1)」、入所者の子どもたちが学校に通うことを拒否された「竜田寮事件(たつたりょうじけん※2)」、黒川温泉のホテルが恵楓園の入所者の宿泊を拒否した「宿泊拒否事件(※3)」についても紹介しています。

※1. 「菊池事件」とは、1952年7月、熊本県で発生した殺人事件に対し、あるハンセン病患者が証拠不十分なまま逮捕され、裁判を受け、その結果、死刑となった事件

※2. 「竜田寮事件」とは、1953年から2年間、熊本県熊本市で起きた、ハンセン病療養所の入所者を親に持つ未感染の子どもたちの通学をめぐる教育行政上の差別・人権問題

※3. 「宿泊拒否事件」とは、2003年、熊本県が実施した「ふるさと訪問事業」に参加した恵楓園入所者18名の宿泊をホテル側が拒否したことから生じた一連の事件。事件の渦中にあった温泉地の名をとって「黒川温泉事件」と呼ぶこともある

ニュースとして大きく報じられたハンセン病関連の事件の資料
館内には、ハンセン病患者が収監された旧菊池医療刑務支所の独房も再現されている

――2003年(平成15年)に起きた黒川温泉事件は、ニュースで見た記憶があります。

木原:メディアでも大きく取り上げられたので、ご存じの方も多いかもしれません。このとき、菊池恵楓園には全国から励ましの手紙が届いた一方で、誹謗中傷の手紙も寄せられました。ここでは、その両方を紹介しています。2000年代になっても、ハンセン病への偏見・差別が存続していたことがうかがえます。

木原:こちらの人形は、入所者のご夫婦が、長年、ご自分たちの子どもとして手元に置いていたものです。

療養所では、入所者が子どもを持つことが認められず、人工妊娠中絶や断種手術が行われていました。出会うことのできなかった子どもの代わりに、人形に手作りの服を着せ、名前をつけ、抱っこしたり、同じテーブルを囲んだりして過ごした方もいます。

1948~1996年に施行された旧優生保護法(きゅうゆうせいほごほう※)では、ハンセン病患者を優生手術の対象とする規定が設けられ、不妊手術が法律に基づいて行われることになりました。

常設展示の最後に紹介しているのが、国家賠償請求訴訟の原告の一人で、菊池恵楓園の入所者自治会長を務めた志村康(しむら・やすし)さんの肉声です。

――志村さんの「どんなに辛くても死んではいかん。人生は生きとることに価値があるけんね」という言葉が、胸に響きます。

※「旧優生保護法」とは、1948年から1996年まで存在し、障害などを理由に国が強制的な不妊手術を認めていた日本の法律

入所者夫婦が大切にしていた子どもの人形

“道具”とことばでたどる、療養所での暮らし

――企画展示「生活の道具とその記憶」は、どのような背景から企画されたのでしょうか。

木原:今回の展示は、入所者の方々に資料館へ足を運んでいただける展示を目指して企画されました。

菊池恵楓園の歴史は約100年にわたります。ハンセン病を理由に隔離され、「生存」するための場所から、少しずつ自分たちの「生活」がつくられていきました。その過程で、さまざまな生活の道具も生まれました。

本来、歴史資料館は入所者の方のためのものでもありますが、これまでは社会的なテーマを扱った展示が多く、親しみを持って見に来ていただけるものとは少し違っていました。そこで今回は、療養所での生活に深く根差した道具を展示することで、思い出を語っていただく場になればと考えたんです。

常設展の流れで鑑賞できる企画展示「生活の道具とその記憶」

――企画展示の構成について教えてください。

木原:「纏って生きる」「食べて生きる」「文化的に生きる」の3つのセクションに分けていて、それぞれの道具に、当時の写真や、ご健在の入所者の方々から直接聴き取った当時のエピソードを添えています。

「纏って生きる」では、女性の入所者の方が作った洋服や和服などを紹介しています。園内では、裁縫の上手な方が裁縫やミシンの使い方を教える教室が開かれていました。治療薬が開発されたことを背景に、将来、療養所を出て社会で暮らすことも見据え、手に職をつけてもらう「厚生(更生)指導」の一環として行われていたものです。教室では洋裁のほかにも、編み物や着物の仕立てなども学んでいました。

中央のブースでは、入所者の方が作った子ども服を中心に展示しています。先ほどお話ししたように、隔離政策下におけるハンセン病療養所では子どもを持つことが許されなかったため、家族のようにそばに置いていた人形のために作られたものもあります。

「纏って生きる」のセクション。当時使われていた貴重なミシンや縫われた衣服などを展示

――どんな思いで作られたのだろうかと想像すると胸が痛くなります。入所者の方への聴き取りは、どのように行ったのでしょうか。

木原:2026年度から、看護部で入所者の方の思い出話を聴き取る事業が始まり、看護師長に協力していただいて、各センター(不自由者棟)でお話を聞かせてくださる方を募りました。現在13人ほどの方からお話を伺えています。

「食べて生きる」では、食事の際に使われていた道具や資料を展示しています。菊池恵楓園は、全国に13カ所ある療養所の中でも入所者数が最も多く、昭和30年代には1,700人以上が暮らしていました。

毎日の食事を入所者に届けるために配食の仕組みがつくられ、園内にはトロッコのレールが敷かれていました。食事を載せたトロッコを走らせ、園内を東西に分けて設けられた配給所へ運び、そこからさらに各部屋へ小分けして届けていたのです。この炊事や配食も患者作業の一つでした。

配食の話を伺うと、70代、80代の入所者の方々からは、子どもの頃に見ていた大人たちの姿を思い出しながら、「昔の人たちは本当に大変だったんだよ」と話されます。

「食べて生きる」のセクション。当時使われていた食器類や火鉢など。また当時の配食の仕組みがわかる大変貴重な菊池恵楓園の地図も掲載

――写真を見ると、食事の入った缶がたくさん載ったリアカーを女性が引いています。かなりの重労働だったのでしょうね。

木原:はい、病気による後遺症で手足が不自由ななかでの作業だったので、相当大変な作業だったと思います。

そして、最後のセクションは「文化的に生きる」です。

前身の九州療養所時代から、所内では俳句団体「檜の影」による文芸活動が盛んで、句集や歌集が刊行されていました。1930年(昭和5年)に活版印刷機が導入され、印刷所が設けられたことで活動はさらに広がります。やがて入所者による機関誌を自分たちで作ろうという機運が高まり、『菊池野』が誕生します。

印刷所では、『菊池野』以外にも、給食の献立表、個人から依頼された句集、年賀状、名刺などの印刷も請け負っていたそうです。1976年(昭和51年)に閉鎖されるまで、長年にわたって園内の文芸活動を支えていました。

「文化的に生きる」のセクション。園内で作られた印刷物や印刷用のイラストの型などを展示

――印刷所で働いている方の写真を見ただけでは、健康そうにも見えます。

木原:おそらく症状が軽い方なのだと思います。印刷所では活字を組んで印刷する細かな作業をしていたため、目と手先を十分に使える方でなければできなかったと聞いています。

――展示を通して見えてくる、当時の入所者の方々の「日常」とはどのようなものですか。

木原:3つのセクションに共通しているのは、とにかく何でも「自分で作る」日常であったということです。生活に必要なものをまかなおうとすると、自分自身で作り上げる必要がありました。

「患者作業」として課された仕事が主ではありましたが、余力や余暇を使って何をするか、何を作るかという点にも、それぞれの生き方が表れています。

――会場の冒頭で、『菊池野』創刊号に掲載された編集を務めた佐藤忠雄(さとう・ただお)さんの「従来の生存から、生活へと飛躍して戴きたいことである」という言葉が紹介されています。この「生存」と「生活」の違いをどのように捉え、展示を通してどう表現されていますか?

木原:「生存」は、ひとまず生きていれば達成されますが、「生活」には、しなければならないことに加えて、自分自身が自主的に何を為すかということが求められます。仕事や家事、学習、人との交流など、そうした自主性の部分ができるだけ伝わるように展示を設計しました。

ハンセン病療養所は、病院であると同時に生活の場でもあるという特殊性を持っています。だからこそ、「生存」と「生活」という視点が生まれたのだと思います。

一人でも多くの「生きた証」を残したい

――看護師長の越猪さんにお話を伺います。現在、菊池恵楓園で生活されている入所者の方々について、また、日常的にどのようなケアを行っているのか教えてください。

越猪さん(以下、敬称略):現在の入所者数は88名、平均年齢は87.5歳です。皆さんかなりご高齢になられていますので、足腰の衰えをはじめ、複数の疾患を抱えている方がたくさんいらっしゃいます。

私たちは、ハンセン病の後遺症があることだけを前提に考えているわけではありません。もちろん、知覚麻痺によって熱さや痛みを感じにくいため、けがをしやすい、指が不自由で物をうまく持てないといった、ハンセン病特有の症状がある方には細やかな配慮が必要です。

ただ、こうした症状や障害も、その方が持つ特徴の一部です。基本的には一般的な高齢者の看護と同じように、加齢に伴う筋力の低下や、病気からの回復に向けたリハビリなども含め、暮らしを含めたその人全体を見ることを大切にしています。

入所者との日々の関わり方やケアについて話をする越猪さん

――「入所者思い出話」の聴き取り調査が始まったきっかけはなんだったのでしょうか。

越猪:もともとは、2年ほど前に園長が提案した企画でしたが、当時は方法がまだ漠然としていて、なかなか動き出せませんでした。

園長には「入所者の方々から直接お話を聴けなくなる日もそう遠くはない。昔遊んだ話や好きな食べ物の話など、どんな内容でもいいから、とにかく生きた証として記憶を残しておきたい」という強い思いがずっとあったそうです。

また、ほかの療養所では語り部として活動されている方もいますが、菊池恵楓園にはほとんどいらっしゃらないことも、きっかけの一つになったと聞いています。

当時の活動写真の傍には、越猪さんら看護師さんや木原さんたちが入所者から聴き取ったエピソードを掲載

――聴き取り調査や日頃のケアで、越猪さんが大切にしていることはありますか。

越猪:まずは、「聴くこと」です。お話を聴くことも看護であり、そのためには関係性をつくることも大切です。

例えば、日々接する中で「この人はなぜこんなに頑固なのだろう」「なぜ厳しいのだろう」と感じることがあっても、その方がどんな時代を生き、どんな経験をしてきたのかを知ると、見方が変わってきます。

人間関係で傷ついたり、自分を守らなければならなかった経験があったのかもしれません。そうした背景を知ることが、関係性をつくり、その方に合った看護を考えるうえでも大切だと思います。

――聴き取り調査を通して、入所者の方々の「生活」や、当時使われていた「道具」から、どんなことが見えてきましたか。

越猪:生活道具にまつわるエピソードを伺うと、厳しい環境の中でも、入所者の方々が支え合いながら暮らしてきたことが伝わってきます。とくに印象的だったのが、火鉢を囲んで団らんした思い出で、人と人との温かなつながりが感じられました。

療養所での生活では、園内で出会った人同士がお互いを思いやり、支え合い、血縁を超えたつながりを築いてきたことも伺えます。

入所者の思い出がつまった展示物

――入所者の方々の過去の記憶や経験を聴き取ることには、どのような意味があるとお考えですか。

越猪:ハンセン病療養所の入所者の方々は、隔離政策の中で多くのものを失いながら生活してきました。過去の記憶を語っていただくことは、「患者」としてではなく、一人の人間として歩んできた人生を知り、その尊厳を大切にすることにつながると思います。

お話の中には、家族との思い出、学校生活、仕事、趣味、仲間との交流など、これまでどんな経験をしてこられたのかが表れています。なかには、時間が経ったことでようやく話せるようになった方もいれば、まだ語ることが難しい方もいます。

今後も聴き取り調査は継続する予定ですが、無理に語っていただくのではなく、その方のタイミングを大切にしたいと考えています。

また、私たちにとっても、過去の経験を知ることは、その方への理解を深めるうえで大切です。どんな苦しみや喜びがあり、どんな人間関係の中で生きてこられたのかを知ることで、日々の看護にも生かせると思います。

そして、入所者の方々の語りは、一人ひとりの人生の記録であると同時に、ハンセン病問題や隔離政策の実態を伝える証言でもあります。今を生きる方々から直接聴ける言葉を記録し、次の世代に残していくことにも大きな意味があると考えています。

過去の問題ではなく、同じ時代を生きる一人の「人間」として

――改めて木原さん、越猪さんに伺います。ハンセン病に対する差別や偏見が今も残る中、今回の展示を通して、来館者に何を感じ、考えてほしいですか。

木原:まずは、ハンセン病問題について改めて知ってほしいです。ご存命の入所者の方々の語りに触れることで、ハンセン病問題が今も続いている問題であることを受け止め、考えるきっかけにしていただければと思います。

個人的には、今回の展示をつくる中で、人には、与えられた環境の中でも自分なりのやりがいや楽しみを見つけ、日々を充実させていく力があるのだと強く感じました。道具や写真、語りを通して、そうした姿も感じ取っていただけたらと思います。

越猪:私が最も伝えたいのは、ハンセン病問題を過去の歴史としてだけではなく、そこに生きた人々の経験としてとらえてほしいということです。

私たちが出会ってきた入所者の方々は、「ハンセン病患者」としてだけ生きてきたわけではありません。隔離や差別によって多くのものを失いながらも、働き、学び、仲間と支え合いながら暮らしてこられました。その姿に目を向けてほしいと思います。

病気や障害、年齢、立場など、一つの側面だけで人を捉えるのではなく、背景や思いを知ろうとすることが、偏見や差別を繰り返さない社会につながるのだと思います。

編集後記

 国立療養所に併設された資料館は、ハンセン病問題の歴史を知ってもらい、その記憶を次の世代へ受け継いでいくための場所だと思っていましたが、それだけではなく、入所者の方々が生きてきた証を残す場所でもあるのだと知りました。

菊池恵楓園歴史資料館の展示は実際に触れることができるものもあり、直接話すことはなくても「入所者さん」ではなく、この場所で暮らす一人一人の姿が浮かび上がるような感覚がありました。

過去を知ることと、そこで生きた人の記憶に触れること。その両方ができる場所だからこそ、ハンセン病問題を自分自身のこととして考えるきっかけにもなるのではないでしょうか。

撮影:十河英三郎

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