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救急看護から生命倫理学へ——看護の枠を超えた先に見えたもの

ハーバード大学医学大学院を卒業して帰国したSasakawa看護フェローの髙橋さん

取材:ささへるジャーナル編集部

私たちは、日々「これは倫理的に正しいのか」と判断を求められます。特に医療現場では、患者とその家族はもちろん、医療従事者自身も「あのときの判断や対応は正しかったのか」と自問することも少なくありません。

命に関わるからこそ、誰もが納得する形で病気や治療に関する話を進めていきたい。しかし病状が深刻であればあるほど、患者の意思決定にかけられる時間は限られる。そのような倫理的ジレンマ(※)に苦しむ看護師の方は多いのではないでしょうか。

※倫理的ジレンマとは、倫理的価値観や原則の対立から生じる葛藤

笹川保健財団は、「看護師が社会を変える」をポリシーに、これからの保健分野を支える新たなリーダーとして、グローバルな視点を持った看護師を輩出するための海外留学奨学金制度「Sasakawa看護フェロープログラム」(外部リンク)を展開しています。

今回登場する髙橋愛海(たかはし・まなみ)さんは、同プログラムのフェローとして、アメリカのハーバード大学医学大学院生命倫理学修士課程(Harvard Medical School, Master of Science in Bioethics※)へと進学。2024年5月に全課程を修了し、現在は慶應義塾大学院政策・メディア研究科の研究員として勤務しています。

※生命倫理学とは、医学研究や保健医療に関わる倫理的・法的・社会的な諸問題に取り組む学問

髙橋さんの留学に至るまでの経緯や留学先で得た学び、看護師が生命倫理について学ぶことの重要性について、お話を伺いました。

看護師時代に抱いた倫理的ジレンマをきっかけに留学を決意

――髙橋さんは、もともと看護師として救命救急センターで働いていたと伺っています。大学院進学を意識し始めたきっかけは何だったのでしょうか?

髙橋さん(以下、敬称略):きっかけは、とある患者さんの病状説明に立ち会ったときでした。今後の治療方針を、意識がない患者さんに代わって家族が決めなければならなかったのですが、命に関わることだからこそ、なかなか決められずにいました。しかし、患者さんの病状が悪化し、一刻を争う状況だったこともあり、当時の私は「どうされますか?」と、決断を迫るような声かけしかできませんでした。

後になって、「看護師として家族の不安を和らげるような言葉をかけることができていたら、患者さんと家族にとって、より満足のいく決断ができたのではないか」と後悔しました。そのときの経験が大きな転機となり、医療における意思決定支援(※)への理解を深める必要性を強く感じ、大学院への進学を決意しました。

※医療者が病気や治療に関する適切かつ十分な情報提供と説明を行い、患者自身が意思を形成・表明・実現できるよう支援するプロセス

大学院への進学を決意した経緯について話す髙橋さん

――国内ではなく海外の大学院に進学することを選択されましたね。「Sasakawa看護フェロープログラム」を志望するまでの経緯を教えてください。

髙橋:もともとは国内で進学先を探していましたが、ちょうど同じ時期に大学院進学を考えていた友人から、「Sasakawa看護フェロープログラム」について教えてもらいました。

プログラムの内容を調べる中で、“看護師だからといって必ずしも看護系の大学院に進学する必要はない”という点に魅力を感じました。一般的に、看護師が大学院に進学する場合、看護学を専攻することが多いのかもしれません。しかし私は、医療や看護の課題は、特定の専門分野だけを学んで解決できるものではなく、幅広い知見が求められると考えています。そのため、看護学以外の分野への進学を支援してくれるSasakawa看護フェロープログラムは、まさに私が求めていた環境でした。

海外への留学に向けて開かれた「Sasakawa看護フェロー」壮行会の模様。前列右から3番目が髙橋さん。その隣には、日本財団・笹川陽平(ささかわ・ようへい)会長、笹川保健財団・喜多悦子(きた・えつこ)会長の姿も

――留学先を決めるに当たって大変だったことはありましたか?

髙橋:私の進学への道のりは、まず自分の興味関心がどの分野に当てはまるのかを探すことから始まりました。生命倫理学に行き着くまでに、さまざまな大学のウェブサイトを調べ、各大学の特色やカリキュラムを比較しながら、どのプログラムが自分に合っているのかを慎重に検討しました。

また、ひとえに生命倫理学と言っても「Master of Arts in Bioethics(文学修士としての生命倫理学)」と、「Master of Science in Bioethics(理学修士としての生命倫理学)」に分かれており、各大学によってその位置づけが異なっていました。結果的にハーバード大学医学大学院に進学を決めましたが、看護師として働きながら、自分に合う進学先を見つけ、実際に出願準備を進めることは、精神的にも身体的にも大きな挑戦でした。

――数ある大学院の中から、ハーバード大学を選んだ決め手は何でしょうか?

髙橋:ハーバード大学医学大学院の生命倫理学プログラムは、「臨床倫理」「研究倫理」「医療政策倫理」の3つの分野に分かれていて、それらを体系的に学ぶことができるカリキュラムに魅力を感じました。特に、実際の医療現場や政策立案の場で活かせる知識とスキルを幅広く身につけられる点が、私が目指す方向性と合致していました。

また、大学名だけで選ぶことは避けたいと考えていましたが、やはり優れた大学には、世界中から優秀な人材が集まると聞いていました。多様なバックグラウンドを持つ人々と学ぶ機会は、一生の財産になると考え、ハーバード大学を選びました。

髙橋さんが進学したアメリカのハーバード大学医学大学院

多様な職歴や文化的背景を持つ学生と議論を重ね変化した、生命倫理学の捉え方

髙橋:先ほど述べたように、ハーバード大学の生命倫理学プログラムは、実際の医療現場で生じる倫理的ジレンマを検討する「臨床倫理」、研究の倫理的妥当性を議論する「研究倫理」、各国の医療的政策が倫理的に適切な方向に進んでいるのかを分析する「医療政策倫理」の3つの分野に分かれていました。

正直なところ、これら全てを一から英語で学ぶことは、ハードルが高いように感じました。しかし、修士課程修了後に、自分自身の言葉に責任を持って発信するためには、生命倫理学の基礎を体系的に身につける必要があったと考えています。

ハーバード大学医学大学院での授業風景。画像素材:髙橋愛海

――実際に授業を受けてみて、印象に残っていることはありますか?

髙橋:クラスメートの経歴の多様さに驚きました。医療者だけではなく、記者や、弁護士、宗教家など、さまざまなバックグラウンドを持つ学生が集まっていました。授業は主にディスカッション形式で進められ、異なる職業・文化を経験してきた人たちとの学際的な議論では、常に新しい発見がありました。

例えば、戦争に関する映画を観た際にも、「一部の人々を犠牲にしてでも戦争そのものを早く終わらせるべきだ」という考えと「戦争が長引く可能性があっても、今危機に陥っている人々を助けるべきだ」という考えに分かれ、議論が白熱したことを覚えています。それぞれの意見には、個々の価値観や文化的背景が反映されており、他者の立場に立って物事を深く考える貴重な経験となりました。

――ハーバード大学の仲間たちとディスカッションを重ねる中で、髙橋さんの生命倫理学に関する考え方に変化はありましたか?

髙橋:進学前は、生命倫理学を探求すれば、看護師として抱いていた倫理的ジレンマに対する答えが見つかるだろうと期待していました。しかし、学べば学ぶほど、生命倫理学に完璧な「答え」はないのだと、気が付くに至りました。

しかし、答えが出ないからといって、看護師が生命倫理学にまつわる議論に参加しなくてもいいというわけではありません。むしろ、看護師は、医療現場で患者さんや家族と直接関わる機会が多く、倫理的判断を求められる場面にも頻繁に遭遇します。それゆえに、これまで以上に生命倫理学の分野に積極的に関与していくべきだと考えるようになりました。

ハーバード大学医学大学院の卒業式の様子。共に学んだ仲間たちと一緒に。手前から3番目が髙橋さん。画像提供:髙橋愛海

修了生をつなげることが、看護師が社会を変える第一歩になる

――髙橋さんは現在、修士課程を修了して大学で研究員として勤務されていますよね。今後はどのようなことに取り組んでいこうと考えていますか?

髙橋:現在は、社会的孤立・孤独状態にある人々を支援する地域医療・福祉職の道徳的苦悩(モラルディストレス※)に関する研究を行っています。

保健師や訪問看護師など地域で働く医療職は、訪問時間などの制約がある中で、ケアを取捨選択しなければならず、自分の信念とは異なる行動を強いられることがあります。また、単独で患者宅を訪問することが多いため、病院で働く医療者と比べて、道徳的苦悩を1人で抱え込みやすいとされています。

これは医療者に限ったことではなく、介護士やケアマネージャーなどの福祉職にも共通する課題です。医療の場が病院から地域に移行するに伴い、地域医療・福祉職が道徳的苦悩に遭遇するケースは、今後さらに増えると予想されます。そのため、道徳的苦悩に対する支援方法や、教育プログラムのあり方を模索し、より良い支援体制を構築することを目指して研究に取り組んでいます。

※道徳的苦悩とは、医療・福祉職が、道徳的に実施するべきと考える医療やケアを、制度や組織の制約、患者の置かれている状況によって行えないことから、内外的に生じる苦悩のこと。倫理的ジレンマに含まれるが、より狭義である

道德的苦恼
MORAL DISTRESS

モラルディストレスとは?
医療・福祉職が道徳的に実施するべきであると考える医療やケアが、制度や組織の制約、患者の置かれている状況によって行えないことから、内外的に生じる苦悩や心理的な不安定さ

道徳的に理想とする自分との乖離

ameton A. Nursing practice: The ethical issues.
Englewood Cliffes, New Jersey: Prentice Hall; 1984.

外的制約
・人手不足
・医師と看護師間の対立
・院内ルール

內的制約
・自信がない
・自己疑念
・職を失う不安
・過去に苦悩した経験
道徳的苦悩(モラルディストレス)の定義。笹川保健財団の公開講座で髙橋さんが講師を務めた際に作成。画像素材:髙橋愛海
構造上の道徳的苦悩

政府の取り組み
政策、 医療保険制度
↓
UPSTREAM
Government and
insurance policies,
EMR redesign, training
professional
norms/expectations
ーーーーーーーーー
組織の取り組み
人材育成、円滑なコミュニケーション
↓
MIDSTREAM
institutional leadership,
staffing models, team
debriefs, communication
ーーーーーーーーー
個人の取り組み
モラルレジリエンス
↓
DOWNSTREAM
yoga, mindfulness,
relaxation, sleep hygiene

Figure 1. Sample targets for reducing clinical burnout. EMR = electronic medical record.
Buchbinder, M., & Jenkins, T. (2022). Burnout in critical care: time for
moving upstreamLinks to an external site.. Annals of the American Thoracic Society, 19 (9), 1443-1445.
医療・福祉職が抱えやすい道徳的苦悩に対して、政府、組織、個人の面から介入する必要性を説いた。画像素材:髙橋愛海

――髙橋さんはSasakawa看護フェローのAlumni Association(アルムナイ・アソシエーション※)の立ち上げにも取り組まれていますよね。その狙いについて教えてください。

※大学院を修了したSasakawa看護フェローの同窓会組織

髙橋:帰国後、多くのフェローが大学、企業、病院などに所属し、それぞれ異なるフィールドで活躍しています。もちろん、それは素晴らしいことですが、笹川保健財団が掲げる「看護師が社会を変える」という理念を実現していくためには、1人の力では限界があるのではないかと考えています。どんなに優秀で、良いアイデアを持っている人でも、社会にインパクトを与えるような変革を1人で成し遂げることは難しいからです。

しかし、同じ志を持つ仲間とつながっていれば、そのアイデアを実現できる可能性は高まりますし、互いの知見を共有することで、さまざまな課題を解決するヒントが得られるかもしれません。

私がAlumni Associationを立ち上げたのは、このようなつながりを深め、看護師が社会を変える機会を少しでも増やしたいと考えたからです。フェロー同士のネットワークから新たなコラボレーションが生まれ、その成果が医療現場や社会に還元されることを期待しています。

Alumni Associationへの思いを語る、髙橋さん

――最後に。海外の大学院への進学を考えている看護師の方に向けて、髙橋さんからエールをお願いします。

髙橋:大学院進学を目指す過程で、語学力向上や仕事との両立など、乗り越えなければならないハードルがいくつもあるでしょう。途中で迷い、諦めたくなる瞬間があるかもしれません。しかし、そのような時こそ、どのような実体験から疑問を抱き、進学を志したのかを思い出してほしいです。その原点が、大学院での軸となり、支えになるはずです。私も応援しています。

編集後記

看護師の多くが経験する、患者や家族、医師の立場に立って考えることで起こる倫理的ジレンマ。何が正しい行動で、何が正しくない行動なのか、その選択をすることによって患者の未来を左右する難しい問題に対し、髙橋さんの今後の活動によって、医療や看護を提供する側の負担が少しでも減ることを願います。

ささへるジャーナルでは、今後もさまざまな分野で学ぶ看護フェローをご紹介していきます。

Sasakawa看護フェローは2025年4月1日から新規フェローを募集予定。くわしくはこちら

撮影:永西永実

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